万屋街にはいくつか公衆トイレが設置されている。その中でも北の小さな公園内にあるものは、あまり利用者がいない穴場スポットだと一部の界隈で知られていた。
その公園は、木々に囲まれた小さな広場のような空間と、その周りを囲むようにいくつかのベンチが置かれているだけの簡素な造りになっている。
万屋街の一番奥になるという立地のせいもあり、昼間もどことなく薄暗く、夜になれば人気はほとんどなくなり、ひっそりとした雰囲気に包まれていた。そのせいか、刀剣男士や審神者たちの密会の場所に使われていたりするようだ。
そんなことなど露知らず、たまには一人になりたいと考えた私は、本を片手に万屋街の外れの小さな公園にやってきていた。
中央広場は人で賑わっているし、メインストリートにもたくさんの審神者や刀剣男士たちが歩いていたというのに、この場所には私以外に誰もいない。それが何だか妙に心地よくて、ベンチに腰掛けると早速持ってきていた本に視線を落とした。
静かな環境のおかげだろうか、文字を追うスピードが普段よりも早い気がする。あっという間に読み終えてしまったので、少し休憩しようと、買ってあった缶コーヒーに手を伸ばしたそのとき、ふと視界の端に何かが映り込んだ。
そちらに目を向ければ、向かい側に設置されたベンチに腰掛ける山姥切長義の姿があった。私の本丸の彼ではない。どこか別の本丸か、政府所属のものだろう。何かの資料を真剣な様子で見つめている。長い足を優雅に組む姿が妙に絵になっていた。
ふと目が合ったので軽く会釈する。向こうも同じように返してきたのを確認してから再び本へと視線を落とし、読書を再開した。
***
別の日。時間が空いたので、再び一人の時間を楽しもうと同じ場所にやってきた。すると、またしても山姥切長義の姿が見えた。今日もまた資料のようなものを熱心に見ている。彼は本丸所属ではなく、政府所属なのかもしれない。あまりじろじろ見るのも失礼なので、私は当初の目的である読書に勤しむことにした。
そうして本の世界に浸っていると、不意に空から水滴がぽたりと落ちてきた。雨だ。天気予報では晴れだったはずなのにおかしい。そう思った直後だった。まるでゲリラ豪雨のような激しい勢いで大雨が降り始めた。
突然のことに呆然としていたが、このままここにいるわけにもいかない。慌てて近くの建物――公衆トイレの屋根の下に避難したが、服はずぶ濡れだし、少々寒い。持ってきていたハンドタオルで顔の水滴を拭いながら、どうしたものかと考えていたところ、「お互い災難だね」と隣から声をかけられた。
声の方へ視線を向けると、そこには山姥切長義がいた。彼の方もびしょびしょに濡れており、髪からは水が滴り、衣服は肌に張り付いている。水も滴る美男子とは彼のことを言うのかもしれないなどと思いながら、「よかったらどうぞ」とショルダーバッグの中から予備のハンカチを取り出して隣の彼に渡した。
「……すまない。ありがたく使わせてもらうよ」
そう言って遠慮がちに受け取り、顔や首筋を伝う水を丁寧に拭っていく。その様子を横目で見たあと、私は再び視線を手元に戻した。目のやり場に困ったからだ。
特に親しいわけでもない、赤の他人とふたりきり。しかも、ずぶ濡れの状態で。とにかく気まずい。話すこともないので、無言が続く。雨音だけが響く中、私はそっとため息をついた。少しでも雨脚が弱まったら、さっさと転送ゲートへ向かうつもりだが、当分止みそうにない。
そんなときだった。どこからともなく、何かの鳴き声らしきものが聞こえてきた。猫の鳴き声に似ている。大雨の中、いったいどこに猫がいるのだろうと不思議に思いながら辺りを見回す。どうやら今私がいる公衆トイレの奥から聞こえるようだ。耳を澄ましてみると「あん、あぁん……」という艶やかな声が断続的に響いている。
これは、ひょっとすると、あれなのか? まさか誰かがこの中で事に及んでいるのか?
私が公園に来たときからトイレにいたのだろうか、それとも本を読んでいる間にトイレに入っていったのか。いずれにしても、よくもまあ他人が近くにいる場で行為に及ぶものだ。そういう趣味なのだろうか。
雨はいまだ勢いが衰えることなく、激しく地面を打ち付け続けている。前が見えないくらいだ。これではこの場から立ち去ることもできない。
背後の個室から漏れ聞こえる喘ぎ声を耳にしながら、私はひたすらに早くこの場から去りたいと思った。隣で一緒に雨宿りしているどこかの山姥切長義はというと、特に気にした様子もなく、携帯端末に目を落として何かを調べているようだった。
しばらくして、ようやく雨が小降りになった。これなら何とか帰れそうだ。ほっと胸を撫で下ろした瞬間、トイレの個室から物音がした。そして、扉が開く音とともに、ふたりの男女が飛び出してきた。男の方は私の本丸にもいる刀剣男士だった。彼の名誉のためにその名は言わないでおくが、とにかく意外な男士だったので思わず面食らってしまった。女の方はもちろん見知らぬ人だった。知っている人だったら気まずいことこのうえない。
彼らは私たちの存在に気づくこともなく、慌ただしく去っていった。その背中をぽかんと見送っていれば、隣にいる山姥切長義が口を開いた。
「やれやれ……。俺も帰ろうかな。君も風邪を引く前に帰った方がいい。……借りたハンカチは次に会ったときに返すよ」
「あ、いえ。ハンカチは気にしなくていいですよ」
「そういうわけにはいかない。では、失礼するよ」
そう言うと、彼は去って行った。その後ろ姿を見送りながら、私も帰路についたのであった。
***
また別の日。時間が空いたので久しぶりに例の公園に行くことにした。またどこかの誰かの濡れ場に遭遇することになったら嫌だなとは思ったものの、やはりあの公園は落ち着くのだ。
ウィンドウショッピングを楽しみながら、万屋街の奥に向かう。途中で購入したサンドイッチを食べながらベンチに座っていると、見覚えのある姿が園内に入ってきた。山姥切長義だった。彼はきょろきょろと周囲を見回したあと、こちらに気づいたようで、ゆっくりと近づいてきた。
「やあ、こんにちは。久しぶりだね」
気さくにあいさつを交わしたところで、山姥切長義が私の隣に腰掛けた。彼は手に持っていた紙袋から何かを取り出すと、それを私に差し出してきた。先日、雨が降った日に貸した、私のハンカチだった。綺麗にアイロンがかけてあり、皺一つなくぴっちりと折り畳まれていた。
「ありがとうございます。わざわざ洗ってくれたんですね」
「ああ。本当はすぐに返すつもりだったのだけれど、なかなか会えなかったから……」
「最近忙しかったので。ここへは久しぶりに来ました」
「そうだろうね。まあ、なんにせよ、君に返すことができてよかったよ」
美しい微笑を口元に浮かべながら、山姥切長義は言った。その表情は穏やかなものだったが、どことなく安堵したような雰囲気を感じ取れた。
「今日も読書かな?」
「はい。ここは落ち着くので。あなたはいつも何をされているんですか?」
「まあ、仕事みたいなものかな。政府所属だといろいろとあってね。ここは静かでなかなか良い場所だ。……まあ、時々妙なものにも遭遇してしまうけれどね」
「あはは……」
先日のことを思い出し、私は苦笑した。
その後、お互い持参していたもので軽食を摂りながら雑談をした。私は読書することを忘れ、彼は書類に目を通すことを忘れていた。気がつけば、空は茜色に染まっていた。
「……いつの間にかこんな時間に」
「楽しい時間はあっという間に過ぎるものだね」
山姥切長義はそう言って立ち上がった。私もつられて立ち上がると、彼に倣って歩き出した。
「では、俺はここで失礼しよう」
「はい、さようなら。また今度」
軽く会釈をして別れの言葉を告げれば、山姥切長義は一瞬驚いたように目を丸くした。しかし、次の瞬間には柔らかな笑顔を浮かべると、「うん。さようなら。……また今度」と言って背を向けた。
夕焼けが照らす中、遠ざかっていく彼の後ろ姿を見送り、私は商店街の方へ向かった。
***
その日から、私はあの公園で政府所属の山姥切長義と会う度に話をするようになっていた。最初は他愛もない世間話から、徐々にお互いの職場の話や、好きな食べ物、嫌いな食べ物など、個人的な話になっていった。
たまたま会ったら話をするという関係だったのが、そのうちどちらからともなく誘い合って、時間を合わせて公園へ行くようになった。山姥切長義と過ごす時間は楽しく、心地良かった。
ある日、いつものように公園のベンチに並んで座って会話していると、ふいに彼が真剣な眼差しを向けてきた。
「俺は、君のことが好きだ。俺と付き合ってほしい」
突然の告白に驚いて固まってしまった。まさか、彼にそんなことを言われるなんて夢にも思わなかったからだ。
沈黙が流れる。私は戸惑いながらも返事をしようと口を開こうとした。そのとき、突如として頭上から大きな音が響いた。驚いていると、すぐに雨が降り始めた。
雨足は次第に強くなり、瞬く間に土砂降りとなった。慌てる私の腕を山姥切長義が掴んで走り出す。駆け込んだのは公園内にある公衆トイレだった。
以前雨宿りしたときは中までは見なかったが、意外に綺麗な内装で掃除もしっかりされているようだった。中には私たち以外の人はいなかった。当然、睦み合っている男女もいない。
変なことを思い出してしまったと首を振る。外では強い雨が降り続けていて、私は途方に暮れた。濡れた前髪から水滴が垂れ、頬を伝う。それを持ってきていたハンカチでぬぐい、隣に立っている山姥切長義の濡れた顔も一緒に拭う。彼は少しだけくすぐったそうな顔をして、それから嬉しそうに微笑んだ。
「君のそういうところが好ましいと思うよ」
手が触れ合い、指先が絡まる。そのまま引き寄せられるようにして、私たちはキスをした。
「……嫌がらないんだね。君は俺のことをどう思う? 俺は君にとってどんな存在なのかな」
真剣な眼差しに射抜かれ、心臓が跳ねた。目の前にいる山姥切長義は政府所属の刀剣男士で、私の本丸の刀剣男士ではない。そんな相手を好きでいていいのだろうか。この気持ちを認めてしまっていいのだろうか。
でも、彼のことは好きだった。彼のことを知りたい。彼ともっと話がしたい。彼の傍にいたかった。だから、私は自分の正直な想いを伝えた。
「私もあなたのことが大好きです」
雨が降り続ける中、今度は自分から唇を重ねた。場所が公衆トイレだというのがなんとも情けないが、それでも構わずに私たちは何度も何度も口づけを交わし合った。
やがて雨が止むと、どちらからともなく手を繋いで公園を出た。