腹が減っては戦はできぬ

 誰かが呼ぶ声がする。
 温かな熱だ。その熱をたどって地に降りれば、驚いたように目を丸くした「主」と視線があった。
 
    *
 
 眠っている物の想い、心を目覚めさせ、自ら戦う力を与える審神者。その審神者に起こされ、山姥切国広が現世に顕現したのはほんの数刻前のことだった。
 自己紹介もそこそこに、小さな狐に誘われて訪れた本丸の一室で山姥切は姿勢を正す審神者の隣に座り、大人しく狐の話に耳を傾けていた。目の前の座卓には誰が用意したのか、湯呑みに入った緑茶が湯気を立てている。
「――というわけで、歴史の改変を防ぐため、<歴史修正主義者>と戦っていただきたいのです」
 狐こと、こんのすけの言葉に、隣の審神者が「はあ……なんだかSFみたいな話ですね……」と気のない返事をする。自分の置かれた状況をまだわかっていないような、そんな声だ。
 様子を横目でちらりとうかがう。だが審神者が身につけている眼鏡に隠れて表情はしっかりとは見えない。
 こんのすけの視線が山姥切へと向いた。説明を理解しているか問いたいのだろう。山姥切は小さく頷いた。顕現した時から大切な一つの使命が胸のうちにある。
 こんのすけがふうと息をつく。審神者の反応がいまいちなので、山姥切の理解している様子に安心したのかもしれない。
「主さまと山姥切国広さまで本丸をもり立てていってください! ……とまあ難しい話はこれくらいしにて、習うより慣れろ! です。必要なことは順次説明していきます。ではちょうど遡行軍が暴れているという情報がありますので、出陣して沈静化を図りましょう!」
「出陣って……私、戦えませんよ!?」
「何をおっしゃっているのですか。戦うのは刀剣男士さまです。主さまではございません!」
 審神者が山姥切の方を見た。が、視線はすぐに外された。一体何が言いたいのか。写しであることが気になるのか。
 いくつかのやり取りの後、最初の戦場、維新の記憶の函館に行くことになった。門の前、心配そうな面持ちで審神者が山姥切を見つめる。彼女の口は何か言いたげに何度か動いたが、聞こえてきたのは「気をつけてくださいね」の一言だけだった。
 
 出陣の結果は散々なものだった。
 敗北。
 やはり写しでは駄目なのか。山姥切の脳裏に後ろ向きな考えがよぎる。
 本丸に帰還すると門を出てすぐに審神者がいた。ずっと待っていたのだろうか。彼女の顔色は悪かった。山姥切が傷の痛みに顔を引きつらせると、審神者は慌てた相貌で首に巻いていた温かそうな布を一番目立つ傷口に押し当てた。
「し、止血!」
 布はじわじわと赤黒く染まっていく。血で汚れる、と抗議したが彼女は聞かない。というより、まったく聞こえていないようだった。「血が、血が」と震える声で繰り返し、「どうしようどうしよう」と震える手で布を押さえている。
「気を確かに、主さま! 刀剣男士さまの傷は主さまが手入れをすることによって綺麗さっぱり元通りです!」
「て、手入れ……じゃあその手入れの方法を早く教えてください」
「もちろんです。ささっ、手入れ部屋はこちらですよ!」
 こんのすけの先導で屋敷内の廊下を歩く。その間も審神者はちらちらと気遣わしげに山姥切の様子をうかがっていた。
「で? どちらをポンポンすればいいんですか!? ちゃんとしたやり方はないんですか!? こんな適当でいいんですか、日本刀ですよ!?」
 手入れ部屋に着くなり、打ち粉を渡された審神者は混乱の極みに達したようだったが、こんのすけの説明を聞くと姿勢を正し、真剣な面持ちで山姥切と向き合った。
 それからのことを山姥切はあまり覚えていない。温かななにかが体をめぐるのを感じながら、自然と眠りに落ちていった。
 
 次に目を開けたとき視界に入ったのは審神者の顔だった。硝子越しの瞳は潤んでいる。
 山姥切の意識が戻ったことに気づいた審神者の目からぽろりと透明な水滴がこぼれた。「よかった、ほんとになおった……」小さな呟きとともに涙ははらはらと審神者の頬を伝い落ちていく。
 なんてうつくしい雫だろう。ぼんやり思う山姥切だったが、自分の状況を思い出して急いで起き上がった。不思議なことに、痛みはすっかり消えてなくなっていた。
 被っていたはずの布が脱げているのに気づき、元の通りに目深に被る。すると、審神者の指がその山姥切がまとう布をおずおずとつまんだ。
「……置いていかないでくださいね」
 頼りなげな声だった。思わず口に出てしまったらしい。「って私、なに言っているんでしょう」とこぼした審神者は眉をさげて唇を結び、視線を膝に落とした。
 言葉にしがたい気持ちが胸中にわく。どうすればいいかわからないながらに、山姥切は口を開いた。
「置いていかないから、泣くな」
「す、すみません。なんか色々いっぱいいっぱいでして……」
 言うやいなや眼鏡を外し、審神者は服の袖で乱暴に目元をこすった。
「しっかりしなくちゃいけませんね」
「その心意気です主さま! あなたはこの本丸の主なのですから!」
 今までおとなしく座っていたこんのすけが畳の上でぴょこんと跳ねる。
「それに主さま、ご安心ください。実は刀装というものがありまして、そちらを装備すれば刀剣男士さまがたの怪我のリスクを減らすことが可能です」
「そういうことは先に言ってくれませんかね。……そういえばね、手伝い札っていう便利なアイテムもあるんですよ」
 眼鏡をかけ直しながら、審神者が言う。最後の言葉は山姥切に向けられたものだった。変わらず彼女はどこか困ったような顔をしている。
「そしてそして主さま! 鍛刀を行えば仲間を増やすこともできるんですよ!」
 悪びれなく新たな情報をしれっと出すこんのすけに、審神者も山姥切も深いため息をつく。
「主さま、鍛刀してみますか」
 子狐が可愛らしく首をかしげたときだった。部屋にぐう、と情けない音が響く。部屋に話し声以外の音がなかったせいで、その音はいやに目立って聞こえた。
 視線が音の方に自然と向く。出どころの審神者は恥ずかしそうな顔で腹を押さえながら、言い訳がましく口を開いた。
「すみません、一度休憩いただいてもいいですか。私、実は仕事帰りでして……いや、審神者も仕事だとは思うんですけど……急にお腹がすいていたことを思い出してしまいました。図々しくて申し訳ないのですが、空腹ではできることもできなくなりますし、それに……えっと腹が減ってはなんとやらと言うでしょう? ……あなたは出陣したあとなんですけど……」
――こいつ、今日一番長く話しているんじゃないか。
 そんなことを考えている山姥切の方をちらと見て、審神者は続ける。
「あなたはお腹すきませんか? ここに来る途中の施設に売店があったので、そこで何か買ってきます」
「……いや、俺は別に。あんたはあんたがしたいようにすればいい」
 素っ気ない答え方だったが、審神者は特別気にしたふうではない。どちらかといえばその答えにほっとしているように見えた。
「ということですので、お言葉に甘えて買い物に行きたいのですが。こんのすけさん? ですっけ? よろしいでしょうか」
「わざわざ買い物に行かずとも、厨で食事を作ることができます。というより、大抵の本丸では食事は厨で作られることが多いですよ!」
 しっぽをぶんぶん振りながら、こんのすけは勢いよく説明する。
「厨? ……ああ、台所のことですね」
「食材や道具などは別途発注が必要ですが、必要最低限のものはすでに用意されています。お米もございますよ! では刀装作りや鍛刀は明日行うことにして、早速厨まで案内いたしますね! 主さまも山姥切国広さまもお休みが必要でございましょう」
「よろしくお願いします」
 流れで山姥切も審神者のあとに着いていくことになった。これから暮らす場所のことだ、知らないことは少ないほうがいい。審神者の斜め後ろを歩きながら、こんのすけが邸内を簡単に説明していくのを聞くともなしに聞く。
 しばらく代わり映えのしない廊下を歩いたところで、こんのすけが立ち止まった。
「こちらが厨です」
 入り口に短めの暖簾が取り付けられている。その下をくぐりながら、審神者はなんともいえない表情で声をあげた。
「竈に釜に、えっとこれはなんだったかなあ。……なんというか、全体的に昔ながらって感じなんですね」
 本の中でしか見たことないな、使えるかな。独り言ち、置かれている道具をためつすがめつ眺めている。
「ご安心ください、主さま。少々時間がかかりますが、主さまの時代に合わせた仕様に変更することが可能です。手配いたしましょうか?」
「刀剣男士様が使いやすいほうがいいんじゃないですか? 主に使うのは刀剣男士様では?」
 目配せで意見を求められるが、山姥切にはなにがいいか悪いかなどわからない。頭を振ってみせると審神者は少し考えるような素振りを見せ、「じゃあ変更お願いします」と告げた。
「それにしても本当にSFみたいですね」
 時の政府の技術ってすごいですね。感心したように声をあげ、審神者は厨の隅の薪に目をとめる。
「野外活動でやったみたいにご飯炊けばいいのかな。ちょっとやってみます。あなたは自由にしていてくださいね。できあがったら一緒に食べましょう」
「待て、俺は元は刀だぞ。別に食べなくても構わない」
「でも今は人の姿じゃないですか」
 不思議そうに答える審神者に返す言葉が見つからず、彼女に促されるまま山姥切はこんのすけとともに厨をあとにした。
 特にやりたいと思うこともなく、最初の部屋までの道を歩く。本丸内は静かだった。
 道中、こんのすけが神妙な面持ちで口を開く。
「山姥切国広さま、どうか主さまのことをよろしくお願いいたします」
 山姥切はなにも答えなかった。

 
 部屋に戻り、しばらく手持ち無沙汰にぼんやりしていると、「お待たせしました」と襖の向こう側から声が聞こえる。その声に返事をすることもなくじっとしていると、襖が開き、皿を持った審神者が入ってきた。どうやら無事料理を完成させたらしい。
「ただの塩むすびなんですけど……釜でご飯を炊くのは難しいですね。少し焦げてしまいました」
 恥ずかしそうに言いながら、卓に皿を置く。そこには形の整った白い握り飯が数個、行儀よく載っていた。一つだけある小さいものはこんのすけ用だろうか。握り飯を見つめていると、斜向いに審神者が腰を下ろした。
「あの……台所で今後のことを少し考えていました」
 真剣な色を帯びた声音に、山姥切の背筋は自然と伸びた。
「……私、まだ審神者のこともこの戦争のこともちゃんと理解していません。覚悟なんてたいそうなものはないし、そもそも私は誰かの上に立つような人間ではありません。そういうのはとても苦手です。正直、今すごく逃げ出したい気持ちです」
 審神者の真摯な瞳がまっすぐ山姥切を見つめる。そして、ゆっくり考えをまとめるように言葉を続ける。
「でも、よくわからないままであっても、あなたを選んで、ここに来た時点で、私は自分の意思で選択してしまっている。だから逃げません。かなり大変そうですが……やれることから少しずつやっていこうと思います。……とりあえず私、泣かないと決めました」
 もういい歳ですしね、といまだ目元が赤い審神者は笑った。
「とにかく、です。腹が減っては戦はできないといいます。いっしょに食べませんか」
 塩むすびの乗った皿を山姥切の方へ押しやると、審神者は両手をあわせた。
「いただきます」
 食前の挨拶を口にすると、早々に握り飯を掴んで、ぱくぱくと咀嚼していく。口の端についた米粒を指で取りながら、審神者は小さな声で言う。
「ちょっと焦げてはいますけど、これはこれで香ばしくて、なかなかおいしいんじゃないかなと思います」
 近づいてきたこんのすけに小さな握り飯をやりながら、審神者は山姥切の方を見た。食べ物など全然食べる気はなかったが、彼女を見ていたらどうにも心地が悪くなった。先ほどの審神者にならって手を合わせると、山姥切も握り飯を手にとり、一口かじる。
「味、どうですか」
「……悪くはない」
 審神者の言ったとおり握り飯は焦げていたが、気にするほどのものではない。本当は少し塩辛いような気がしたが、審神者の目元に涙の名残を見つけてしまったから、そんな風に思ったのかもしれなかった。
 山姥切の返答は味も素っ気もない簡潔なものだったが、審神者は嬉しそうに笑った。
「そっか、よかったです。台所が使いやすくなれば、もうちょっとマシなものが作れると思いますよ」
「……どうだかな」
 我ながら可愛げのない返事だ、と声に出してから山姥切は思ったが、審神者の眼鏡の奥の瞳は優しく細められていた。
「なにがおかしい」
「いいえ、何も。山姥切国広様、これからどうぞよろしくお願いします。……いっしょにがんばりましょうね」
 そう言って、審神者は食べかけの握り飯を再び口に運んだ。
 この時、現世に顕現してから初めて山姥切は自分の名前を呼ばれたのだが、それに気づいたのはもう少し先のことだった。