居眠り王子さま

 午後の出陣が無事終わり、遠征部隊も帰還し終えた頃にはすでに日は傾き始めていた。西から差す太陽の強い光に眼鏡の奥の瞳を細め、審神者は長い縁側を歩きながら、すれ違う男士に本日の近侍であった「山姥切長義」の居所を尋ねていた。
 するとそこへ、刀剣男士の居室がある方向から探し刀と同室である豊前江が歩いてきた。
「ちょうどいいところに。豊前さん、山姥切長義さんは部屋にお帰りでしたか?」
「帰ってきてねーな。まだ仕事の残りでもやってんじゃねーか」
「仕事終わりの挨拶はしたんですけど……」
「あいつ、真面目だかんなー。それは主だって、よく知ってるだろ」
 それじゃ、また夕飯のときにな。そう言って、豊前は片手をひらひらとさせながら、どこか眠たそうに欠伸をかみ殺しながら歩いていく。今日の出陣先は池田屋の記憶で、彼は出陣メンバーだった。池田屋の戦場は夜。しかし本丸はまだ明るい、という時差があるので、つい欠伸してしまうのも無理もない話だった。
 一仕事終えたばかりの時間のせいか、すれ違うものはみなどこか肩の力が抜けているようだった。刀剣男士たちにとっての本丸が安堵できる場所であればいい。審神者はそんなことを思いながら、つられてこぼれそうになる欠伸を我慢し、腕のなかの書類を抱きしめ直す。
 この抱える書類こそが審神者が山姥切長義を探す理由だった。さきほど、毎日の日課である業務報告用の書類をこんのすけに提出しようとしたところ、不備が見つかったのだ。
「主さま、近侍殿のサインがございませんよ。えーっと、こちらでございます」
「あれっ、今までそんな項目ありましたか?」
 眼鏡をおしあげて、書面を確認する。こんのすけは可愛らしい前足を一つの空欄の前にぺたんと置くと平然と答えた。
「言い忘れておりました。審神者に刀剣男士ときちんとコミュニケーションを取らせるために増えたのでございます。サインしてください、って会話がひとつ増えますでしょう?」
「はあ……まあ、そうですね。増えるかもしれませんね」
 この本丸にいるサポートぎつねはちょくちょく報告を忘れる。審神者はため息をついた。
 時の政府は普段細かいくせにところどころでものすごく雑だ。
「……サインを頂いてきます」
「では夕食後にでも参りますね。油揚げをご用意して頂けると大変ありがたく存じます」
 どろんと忍者が消えるように、音もなくクダギツネことこんのすけはその場を後にした。相変わらず謎の技術だと審神者は思った。
(それにしても山姥切長義さんのチェックがこれを見逃すとは。私もぼけっとしていたけど、あのひとも疲れているのかも)
 書類の束に視線を落とす。均等なサイズで規則正しく並んだ文字は端末から出力されたものだ。最初は機械類に弱い刀剣男士が多いなかで、元監査官の山姥切長義はもとから機械に強かった。本丸所属当時からパソコン端末を軽々と使い、書類作成の手伝いも迅速にこなしてくれた。だから、気づかないうちに頼りすぎてしまっていたのかもしれない。
 近侍は三日固定制で、彼の近侍期間は明日まで残っている。もし疲れがひどいようなら、一日誰かに変わってもらうように頼んだほうがいいかもしれない。初期刀の彼であれば、交代を了承してくれるだろう。おそらく。
 脳内で算段をつけながら、近侍の部屋へいそぐ。空は沈みゆく太陽で真っ赤に染まっていた。

 近侍の部屋は審神者の執務室の隣にある。辺りはひっそりと静まり返っており、部屋の襖はしっかりと閉じられていた。
「山姥切長義さん、いらっしゃいますか?」
 返事はない。
「入ってもよろしいでしょうか?」
 やはり返事はない。
 審神者は戸惑いつつも、「すみません、開けますね」と声をかけながら、襖を申し訳程度に開ける。そこから見えた部屋の中に探していた男士の姿を見つけ、ほっと息をつく。
「失礼しますね」
 自然と声は静かになる。飾り障子から差し込む西日が部屋のなかをオレンジ色に照らしていた。件の刀剣男士は部屋の真ん中の机に身を投げ出すように突っ伏している。どうやら眠っているらしかった。
 審神者が初めて見る、山姥切長義の油断している珍しい姿だった。声をかけてもいいのか否か、しばしの逡巡のあと、とりあえず起こさないようにつとめて彼のそばに近寄った。
(……どうしよう)
 立膝で彼の隣に座ってみたが、それからどうしたらいいのかわからなかった。困りながら、瞳を閉じる山姥切長義の端正な顔をみおろす。
 日の光を浴びて銀の髪がきらきらと光って見える。髪が無造作にかかる肌はぬけるような白さで、閉じられた瞳をふちどる長い睫毛が目もとに影を落としていた。まるで芸術品のようだ。
 実際、彼は美しい日本刀が人のかたちをとった存在だった。本丸に就任する前、日本刀のことをよく知らなかったころに、審神者は彼を美術館で見たことがあった。
 もともと美術館や博物館は好きだった。田舎でも都会でもない自分の住む町から電車に乗って、ポスターで告知されていた展覧会を見るために美術館へ赴いた。そして、そこでたまたま展示されていた彼を見た。よく知らないながらに、なんて美しいのだろうと惹きつけられた。まるで桜みたいだ、と彼の刀を見て思ったことを覚えている。
 桜といえばこの刀だった。誰にも言うつもりはなかったが、なりゆきで一度だけ、この話をしたことがある。そのとき、山姥切長義は怜悧な瑠璃色の瞳でこちらをじっと見ただけで、口を開くことはなかった。あまりにありきたりな言葉で呆れたのかもしれなかった。語彙を増やさなければならないと思ったエピソードのひとつである。
「山姥切長義さん」
 肩を叩こうと手を伸ばすが途中でやめる。勝手に触れていいものかと戸惑われたからだ。
(…………どうしよう)
 審神者は目を閉じた。こんな簡単なことさえできないなんて呆れてしまう。それにしても、どうして彼は起きないのか。気配には人一倍敏感そうなのに。視線の先の彼の寝顔は相変わらず美しい。
 しかし、いつまでもこうしているわけにはいかない。もうしばらくすれば夕餉の時間になるし、サインもほしい。
 片手で抱えたままの書類にちらりと目を向けたそのとき、審神者の脳裏に天啓のごとくひとつの台詞が思い浮かんだ。それを少し迷いながらも声に出す。
「……山姥切長義さん、起きないとキスしてしまいますよ?」
 どこかで見たか聞いたかした、自分で口にするには気恥ずかしい台詞。思い切ってみたものの、彼の反応は残念ながらなかった。
(ええ~……)
 審神者は肩を落とした。こんなはずではなかった。予定ではこの台詞で彼は飛び起きるはずだったのだ。だって、されたら困るはずだ。審神者自身も本当にするつもりはない。
「起きないと審神者からのキスですよ?」
 やはり反応はない。彼は涼しげな顔で夢の中だ。自分らしくない行動にこっちはどうにかなりそうなのに。
「なぜ……。起きないと本当にしちゃいますよ? いいんですか!?」
 部屋には審神者の声以外の音はない。やけに響いて聞こえる恥ずかしい自分の台詞に審神者は頬を染めた。眠っているひと相手に一体何をやっているのか。こんなところ誰かに見られたら正気を疑われるに違いない。
(なにやってるんだろう、私……)
 やめた。出直そう。
 定位置からずれた眼鏡を元に戻して抱えた書類の乱れを直し、その場から立ち上がる。だが立てなかった。片腕をとられていたからだった。
 バランスを崩し、再び畳の上に腰を落とす。山姥切長義の左手が審神者の腕に伸びていた。手をたどっていくと、彼が肩を震わせているのが見えた。どのタイミングなのかわからないが、起きていたらしい。
 穴があったら入りたい気持ちだ。手短に用件を告げようとしたが、その前に山姥切長義のとろんとした眠たそうな瞳が審神者を見た。
「お姫さまからの口づけはいつまで待てばいいのかな?」
 腕を引かれる。山姥切長義の宝石のような瞳が目と鼻の先にあった。ほんの少し身を乗り出せば正面から触れ合ってしまう距離だ。ぎょっとして思わず身を引く。顔が熱い。まっすぐな視線に耐えられず、さっと顔を背ける。相手に聞こえているのではないかと思うほど、心臓がうるさく鳴り響いていた。
 ひょっとして、このひと最初から起きていたのでは。疑わしく思っていると、彼が体を起こした。それと同時に腕が解放され、少しほっとする。
「ふふ、すまない。何かあったのかな」
 そこにいたのは隙のないいつもの彼だった。口元にかすかに笑みをたたえている。審神者は調子を整えようとわざとらしい咳をし、内心ドギマギしながらずっと大切に抱えていた書類の中から肝心の一枚を差し出した。
「すみません、今日から業務報告に近侍の署名が必要になったみたいで」
 隅にある四角い空欄を指し示して、署名のお願いをする。彼はその場所を確認すると、すぐにペンを走らせた。お手本のように整った文字だった。
「これでいいかな」
「はい、ありがとうございます」
 こんのすけが夕食後にやってくることを連絡し、受け取った用紙を書類の束の一番上にのせる。 
 用件も済んだことで、部屋に沈黙が降りた。なんとなく感じる気まずさを振り払うように審神者は部屋に来る前に考えていたことを言葉にしようとした。
「あの、山姥切長義さん。もしお疲れでしたら、明日は無理せず休んでくださいね。近侍は別の方に、」
「気遣いありがとう。だが変更の必要はないよ。……ここは居心地がいいんだ、とても」
 言おうとしていた言葉は遮られてしまった。彼の表情はやさしく、海のような瞳は凪いでいた。慈愛すら感じられる眼差しを向けられ、「そ、それは喜ばしいことです……?」とつい審神者はよくわからない返事をしてしまう。
 長船派ってなんかすごいな、と審神者は小学生のような感想を抱くのだった。