太陽が空のてっぺんに差し掛かる少し手前の時間。高山芙由子がその建物に足を踏み入れたときに持っていたものは、大きなボストンバッグ、シンプルな腕時計、折り畳んだメモ用紙、それだけだった。
とある職に就くために芙由子は今日、この場所へやってきた。それは今まで小さな役場の事務を淡々とこなしていただけの者にとって、未知の仕事だった。内容は詳しくは知らない。SF小説のような話をファンタジー小説に登場するような者たちから聞かされただけだ。
思い出すだけでも意味がわからない。安定した職に満足していたのに、なぜこんなことになってしまったのか。
冷静でいつも落ち着いていると評されることが多い芙由子だが、さすがに自分の人生がかかっているとなると不安にもなる。顔が強ばるのを感じながら、無機質な長い廊下を歩いた。人通りが少ないせいで足音がいやに反響して聞こえ、余計に緊張を煽る。
分かれ道で一度立ち止まり、片手に握りしめていたメモ用紙を開く。そこには整った美しい字で待ち合わせの時間と場所が記されていた。腕時計を確認すれば、予定の時刻まで10分と少しといったところだった。
きちんと10分前行動してしまう自分が恨めしい。芙由子はひとつため息をついた。実のところ、この先に行くことに気が進まないでいる。正直今すぐにでも立ち去りたい思いでいっぱいだったが、「真面目が服を着ているようだ」と言われることもある芙由子には難しいことだった。大体、新しい仕事に就くにあたり、慣れ親しんだアパートの部屋は引き払ってしまっていた。
悲しいことに戻りたくても帰る場所はない。自分を追い込むために自分でそうしたのだ。面倒だと思うことを知らないふりができる人間だったら、もっと人生楽だっただろう。俯きながら硬質な壁に手をつき、再度重いため息をついたときだった。
「どうしたのかな」
涼やかなテノールが耳を打つ。聞き覚えのある声だった。すべてが決まってしまったあの日、あの真っ白な部屋で聞いた、芙由子の憂鬱の原因を決定づけた、あの彼の声だ。恐る恐る顔をあげると想像していたとおりの男が作ったような微笑を口元にたたえて、目の前に立っていた。
距離の近さに動揺して、とっさに一歩後退する。男は小首を傾げた。そんな些細な仕草すら優雅にこなしてしまう彼が怖い。背後に輝く光が見えるようだ。
騒ぎ出しそうになる心臓を抑え、手にしたメモに目を走らせる。芙由子はつとめて冷静に男に尋ねた。
「……失礼しますが、ひょっとして私と待ち合わせている山姥切長義さんでしょうか」
「ああ、あなたの山姥切長義だ。ここは広いからね、迷ったらいけないと思って迎えにきたんだ」
こちらへの気遣いを口にし、彼は完璧な笑みを浮かべた。
***
彼――山姥切長義との出会いは一カ月ほど前まで遡る。
職場経由で受けた健康診断で「審神者」の適正があることがわかったのが、そもそもの始まりだった。案内状という名の出頭命令を勤め先の人事課から受け取った芙由子は、事情を理解しないまま、手紙に記されたとおりの期日に指定の場所へ向かった。
レンガの壁がモダンな建物だった。さすが政府の関連施設というべきか、広く大きい。正面の自動ドアを通り抜け、辺りを見渡す。入り口は多くの人で混み合っていた。
指示通りに受付窓口に行くと、スーツに着られている感じの可愛らしい少年がちょこんと座って待機していた。なぜこんな施設に子どもがいるのかと不思議に思いつつ、芙由子は必要な手続きを済ませた。少年はきびきびとした口調で次の行き先を指示してくれる。それに従って、歩を進める。
長い廊下で時折人とすれ違った。ただ気になったのは、たまに全く同じ顔をした人物が横を通り過ぎていくことだった。つい振り返って二度見してしまった。びっくりするほど足が早いのか、双子か三つ子か、それともドッペルゲンガーか。芙由子は少し混乱した。
狐に化かされたのだろうか。そんなことを考えていると目的地に到着した。いかにも偉い人がいます、という雰囲気を感じる扉を二回ノックすれば、すぐに「どうぞ、お入りください」と声が返ってくる。受付からすでに話が来ているのだろう。芙由子は「失礼します」と丁寧に扉を開けた。
室内は真っ白だった。部屋の奥には白いテーブルクロスの敷かれた長机があり、その上に高価そうな仰々しい刀掛けが数個置かれていた。
芙由子は視線を彷徨わせた。確かに部屋から声が聞こえたはずなのに、人の姿が見当たらないのだ。聞き間違いだったのか。奇妙に思っていると部屋の奥から先ほどと同じ声が聞こえてくる。
「お忙しいなか、お呼び立てして失礼いたしました。この度はご足労いただき、ありがとうございます」
よくよく見れば刀掛けのそばに、小さな狐が行儀よく座っていた。思わず大声を出しそうになってしまったが、芙由子はすんでのところで堪えた。狐に化かされている説が濃くなった。
ぬいぐるみのような狐は愛らしく首を傾けながら、流暢に喋り続ける。
「時間は有限です。さっそく説明いたしますね。今回、あなたさまにこちらへ来ていただきましたのは……」
狐改め、管狐のこんのすけの小難しい話を要約すると、「審神者となって、刀剣男士とともに歴史を守るために戦ってください」ということだった。意味がわからない。
聞いた内容のスケールの大きさに、脳がキャパオーバーしそうだ。時間犯罪を企む「歴史修正主義者」に、「時間遡行軍」。歴史の守りとして派遣された「審神者」。――そして『物の心を励起させる力』を持つ審神者によって呼び起こされた刀の付喪神の「刀剣男士」。こんのすけの話はどう聞いても、壮大な小説の序章としか思えなかった。
まさかこの現代日本にこんな仕事をこなす人たちがいるとは知らなかった。審神者たちは拠点となる本丸を維持しながら、それぞれのペースで刀剣男士たちとともに日々遡行軍と戦っているそうだ。
本当の話なのだろうか。とても胡散臭い。政府施設で公然と行われているが、愛くるしい動物と弱者を利用した新手の詐欺なのではないか。そもそも自分に『物の心を励起させる力』があるとは思えない。今になって健康診断に引っかかるというのも妙だった。普通は義務教育が終わる頃には、素質の有無がわかるという。
「嘘ではありませんよ!」
芙由子が不審がっていることに気づいたらしいこんのすけが、心外そうに鼻息を荒くして口を尖らせる。
「審神者さま、まずはこちらにある五振りの刀から一振りお選びください。その刀から目覚めた刀剣男士があなたさまの初期刀として、ともに戦ってくださるでしょう」
口を挟む間もなく、話はどんどん進んでいく。芙由子は曖昧に返事をして、長机に恭しく安置されている刀たちを眺めた。芙由子に刀の知識はない。菊一文字や正宗、妖刀村正、鬼切といった名前を小説の中で目にしたことがあるくらいだった。「どうぞお手にとってご覧ください」と言われるものの、手袋もしていない手で価値のありそうな芸術品に触れるのは躊躇する。刀は鞘に収まっている。素人が無闇に抜くのは危険だ。
こんのすけのつぶらな瞳が芙由子を見つめる。そこになんらかの希望を感じて、心が少し痛んだ。おそらく、その期待には応えられない気がする。
悩んでも悩んでも正解は思い浮かばなかった。こういうときは直感に頼るのも手だ。芙由子はぱっと目についた橙色の下げ緒が巻かれた刀を手にとった。
「山姥切国広ですね」
その刀の名を告げると、こんのすけはなんでもないことのように「では、呼び起こしてください」と言う。どうすればいいのかは教えてくれない。
芙由子は内心頭を抱え、相変わらず何も理解しないまま、心の中で「やまんばぎりくにひろ」とその刀の名を呼んでみた。しかし、どれだけ経っても何も起こらなかった。
こんのすけが焦っているのがわかった。「霊力が低い……? いや、波長が合わない……?」などとつぶやいている。
じりじりと無駄に時間だけが過ぎていく。途中、施設で働く職員が様子を見るためか部屋にやってきた。芙由子は小さく息をつき、平静になるようつとめながら、ようやく現れた人間に提案する。
「申し訳ないことですが、私には審神者の素質はないようですよ。この話はなかったことにさせてください」
「そんなはずはありません。あなたには審神者の素質があると診断結果に出ています」
やってきた女性職員はきっぱりとした口調で言った。
「……間違いだったのでしょう」
「これまで診断に間違いがあったことはないのです」
「では、初めてのミスということでしょう。いつまでも能力のない人間がいてはお仕事が進まないでしょうし、そろそろお暇させていただきます」
手にしていた刀を元の場所に慎重に戻す。お騒がせしましたと、いるかどうかもわからない刀の付喪神に謝罪する。
これでいいと芙由子は思った。戻って、職場に間違いだったと報告し、いつもの日々に戻るのだ。審神者の数はそれなりにいると聞いているから、自分が無理にならなくてもいいはずだ。
そう思っているのに、相手は全然諦めてはくれない。
「しょ、少々お待ちくださいね!」
引き止めるせりふを口にし、女性職員はバタバタと慌ただしく部屋を出て行く。こうなってしまうと勝手に帰宅することは憚られる。芙由子は仕方なく、こんのすけとふたりきりの気まずい空間に残ることにした。
半時間ほど経ったのち、先の女性職員とは別の男性職員が部屋にやってきた。急いできたらしく、少し息があがっている。彼は両手で大切そうに刀掛けを持っていた。そこには長机に並んでいるものとは違う刀が置かれており、鞘には青い下げ緒が巻かれていた。
男性職員は息を整えると口火を切った。
「こちらの刀を呼んでください。あなたには審神者の素質があります」
「……わかりました」
真摯な眼差しを受け、芙由子は渋々首肯した。
「この刀の名前はなんというのでしょうか」
問えば、メモ用紙を渡された。整った美しい字で記されたその名――丁寧にふりがな付きだ――を見て、首をひねる。先ほど手にした刀と名前が似ている。
芙由子は細心の注意を払い、刀掛けにあるそれを持ち上げた。それから一文字一文字ゆっくり、心の中で読み上げる。
(……やまんばぎりちょうぎ)
これでいいのだろうか。もう一度だけ、山姥切長義と呼んでみた。何も起こらなかったら今度こそ帰ろう。そう思った矢先のこと。
目の前にぶわっと桜吹雪が舞った。その源は芙由子が両手で持った刀だった。桜の花が咲いている。風もないのに勢いよく、淡い薄桃色の花弁が周囲に舞い踊る。
何が起こったのか一瞬わからなかった。呆気にとられていたら刀を落としそうになってしまい、慌てて両手で抱え直す。きっと美術館や博物館で飾られるような芸術品だ、傷つけたら一大事である。
桜の花弁はなおも湧き上がる。だが実際には存在しない幻覚らしく、床に花弁が積もることはない。呆然とその光景を見ていると、不意に花吹雪の中から腕が伸び、芙由子が抱えていた刀を手にとった。
いつの間にか真正面に男が立っていた。この部屋に来るまでに見かけた謎のそっくりさんたちと同様の、浮世離れした美しさを持つ青年だった。舞い散る桜がとてもよく似合う、とぼんやり思う。
青年は口元に弧を描き、静かだった室内に涼やかな声を響かせた。
「俺こそが長義が打った本歌、山姥切」
そして、海に似た色の瞳で芙由子をじっと見つめた。
「どうしたかな? そんなにまじまじと見て」
***
山姥切長義の先導で、長い廊下を歩く。あの日、桜とともに現れた彼の名乗りを聞いたことをきっかけに、芙由子が意識しないところで刀剣男士である彼と契約が結ばれてしまったらしい。はからずしも審神者になることが決定してしまい、今こうして共にいる。
目的地は本丸へ移動するためのゲートである。話によると本丸というものは今自分たちがいる場所――現世、などと呼ばれている――とは別次元の空間に存在するらしい。まさにSF小説の世界である。
「あなたの荷物はこれだけなのかな」
先を歩いていた長義がふと立ち止まり、振り返る。彼は片手に芙由子が持参したボストンバッグを提げている。決して持たせているわけではない。固辞したにもかかわらず、勝手に持っていってしまったのだ。
こういう扱いを受けることに芙由子は慣れていない。荷物が少なくてよかった、と思いながら頷いて答える。
「はい、これだけです。もともと私物は少ないですし、必要なものがあれば買えばいいので。貯金ならあります」
「そうか。……俺も政府で働いていた間の蓄えがある」
ぽつりと独り言のようにこぼし、長義は再び前を向いた。芙由子は初耳の情報に少しだけ驚いた。最初に選択する刀にも別の生活があったのか、と思う。初めからずっと刀だったわけではないのだな、と考えたところで訳がわからなくなり思考を放棄する。
そういえば、受付にいた少年やときどきすれ違う美しいそっくりさんたちも刀剣男士だと聞いた。刀種により人間としての体の大きさも変わり、得手不得手も違うのだという。その辺は徐々に勉強していきたい。
前を歩く彼は政府でどんな仕事をしていたのだろう。まだわずかな時間しか一緒にいないが、気配りがすごいのできっと有能な刀だったに違いない。そんな山姥切長義がどうして芙由子の刀剣男士となったのかは謎である。
彼がいなかったら今ごろは……と脳裏を過る考えを振り払うように頭を振る。彼は何も悪くない。
「あの、私たちが向かう本丸は普通とは違うと聞いていますが」
「<全国の審神者と刀剣男士を常に適切に支援するための本丸>だね。複数の審神者と刀剣男士の主従が過ごし働く場所だ」
「長い名前ですね」
心の内で名前を覚えようと反芻させていると、「通称は<本丸なんでも課>だよ」と教えてくれた。とにかく審神者と刀剣男士に関わることは通称どおり、なんでもサポートする場所だそうだ。
「俺も何度か足を運んだことがある。一つの敷地内にいろいろな役目を持つ建物があるんだ。この施設とは比べものにならないくらい広い」
「大学みたいな感じでしょうか」
講堂、研究棟、体育館に図書館に、と大学のキャンパスには複数の建物、施設が存在する。そんな雰囲気を思い浮かべる。
「そうかもしれない。もっとも、俺は大学に行ったことはないのだけれどね」
ぽつぽつ短い会話をしながら歩いていると目的地に到着した。
別次元へと続くゲートは駅の改札口とほとんど同じようだった。切符の挿入口、電子カードをかざす部分もある。芙由子が見知っているものと違う部分は、こちらには番号入力装置がついていることくらいか。
「使い方を教えよう」
長義が上着から一枚のカードを取り出し、簡単に利用法の説明を始める。カードをかざして、行き先の座標番号とパスワードを入力すると目的地への扉が開く、という具合らしい。ATMの使い方になんだか似ていた。
「これはあなたの分だ。重要なものだから失くさないように」
「はい、わかりました。ありがとうございます」
見ればみるほどIC定期券に似ていた。受け取ったそれはひとまず服の胸ポケットに大切にしまう。
「行こうか」
彼に促され、開いたゲートを通り抜ける。まっすぐ前に進んだはずなのに、エレベーターに乗ったときのような浮遊感を覚えた。その次の瞬間、目当ての場所に到着した。
大きな門。その先にはひとつの町があった。たくさんの建物、道を行き交う人々。道路では車も走っていた。
「本丸なんでも課とは……」
ひとつの部署とは思えない。この場所にどれだけの人が働いているのか。想像以上の規模に芙由子は思わずぽかんと立ち竦む。
「驚いたかな」
その声にはっとして隣を見れば、長義がくすりと笑みをこぼす。顔の傾き加減、唇のあげ具合を見て、やはり計算されたような角度だと思いながら、芙由子はなんとか頷き返す。
「まずは審神者長に会いに行こう。そこで諸々の説明を受ける手筈になっている」
「審神者長……ここで一番偉い人ですか」
「まあ、そういうことになるね。課長といった方があなたにはわかりやすいかな」
「なるほど。理解しました」
さまざまな建物の前を通り過ぎ、道なりに進む。馴染みのない単語が書かれた案内板、謎の店にエトセトラ。左右に立ち並ぶ見慣れない店にきょろきょろ視線を巡らせていると「時間が空いたときにでも案内しよう」とまた彼に笑われてしまった。
中央棟と呼ばれる、敷地内で一番大きな建物の一室でさっそく芙由子は上司となる者と対面した。
着物がよく似合う、楚々とした佇まいの優しげな女性で「吉野」と名乗った。彼女の傍らには、白い衣装をきた童話に登場する王子のような甘いマスクの少年が控えていた。
「まずはあなたにこちらをお渡しします。この本丸所属であることを示すネームプレートとバッジです。バッジはあなたの山姥切長義に。勝手ではありますが、審神者名は私の方で決めさせていただきました。これからはその名を使用してください。……本名ではいろいろ障りもありますので」
受け取った名札は首から下げるタイプのものだった。以前の職場でも利用していたので馴染み深い。バッジは直径1cmくらいの大きさで、緻密な桜の意匠が彫られている。金色に輝きとても美しい。よく見ると、名札にもワンポイントに同じ桜の意匠が印刷されていた。
「……菫」
印字された名をつぶやく。この名で呼ばれても、すぐには反応できなさそうだ。そのうちに慣れる日が来るのだろうか。それにしても障りとはなんなのか。
じっと手元を見つめていると、隣に座っている長義が「いい名前をもらったね」と芙由子を見て微笑んだ。彼はどうしてそういう反応をするのだろう。実にできる刀剣男士である。できすぎて怖い。とりあえず、「早く慣れるよう努めます」とだけ返す。会話のキャッチボールができていないと思ったが仕方のないことだ。
「ではさっそく仕事内容について説明しますね。といっても、一言で終わってしまうのですが……」
肩を竦めて吉野は切り出した。
「菫さんには<久遠館>の管理運営をしていただきたいのです。久遠館は図書館みたいなものと捉えていただければ結構です」
「……具体的にはどんなことをしたらいいのでしょうか」
「久遠館を訪れる者が必要とする資料をその都度提供する、くらいですね。菫さんは司書資格を持っていらっしゃるとか。ですから、すべてあなたの裁量にお任せします。あなたの使いやすいように自由にやってもらって結構です」
吉野はにっこり微笑んだ。傍らの少年も同じように微笑んでいる。実にいい笑顔だ。
彼女の言うとおり、芙由子は形だけの司書資格を持っている。だが、役立てたことは一度もない。
「なあ、これはひどい無茶振りをされているんじゃないか」
長義が眉を曇らせる。芙由子は小さく息を吐いた。
「私もそんな気がしてきました……」
「あっ、ため息をついては幸せが逃げてしまいますよ! 住めば都という言葉があります、ねっ主様!」
少年がはじめて声をあげた。外見にあった少し高めの可愛らしい声だった。そんな彼の発言に吉野も「そうね」と優しい眼差しで肯定しているが、誤魔化された気がしてならない。
「……俺の仕事は彼女の手伝いでいいのかな?」
「いえ、山姥切長義さんには討伐部隊に加わっていただくことになっています。問題がありましたか?」
「いや。体に慣れ次第合流しよう」
「頼もしい限りです。あなたの政府機関での仕事ぶりは聞いていますので。では明日から慣れるための出陣をお願いします」
「承知した」
ひととおり話し終え、場はお開きということになった。
「久遠館まで、こちらの物吉貞宗に案内させましょう」
「心遣いは感謝するが、場所は知っているので不要だ」
「では鍵だけお渡ししますね」
カードタイプの鍵と、アンティーク調の鍵の二種類を受け取る。前者が建物内に入るための鍵で、後者が貴重な資料が保管されている書庫の鍵らしい。書庫には部外秘のものも混ざっているとさらりと言われた。大切な資料がある場所の管理を審神者になったばかりのド素人に任せていいのか。時の政府とやらの判断の基準がわからない。理解に苦しむ。
「あっ。山姥切さんは部屋、どうするんですか? 寮を使いますか?」
少年――物吉貞宗が長義に問いかける。ここには刀剣男士専用の寮があるという。審神者専用の寮もあるというが、資料館にも部屋があるということで芙由子には必要なさそうだった。
長義はゆるく首を振って答えた。
「俺は、彼女と一緒にいたほうがいいだろう」
「わっかりました! 主様、ボク各所に報告済ませてきますね」
「ええ、よろしくお願いします」
吉野の反応をうかがったのち、すぐに物吉は部屋を退出した。その背を見送り、つい疑問をこぼす。
「寮があるのに、利用しないのですか」
「ああ。一緒では迷惑かな」
「そんなことはありませんが……」
言葉を濁す。迷惑というより、気まずいといった方が正解だ。複雑な気持ちになっていると、吉野がふふと笑みをこぼした。
「菫さんのことが心配なのですよ。あなたの霊力は少々変わっているようですから、連れ合いの刀剣男士とともにいた方が何かと都合がよいでしょう」
連れ合いという表現に多少の引っ掛かりを覚えたが、芙由子は気にしないことにした。
「……霊力とみなさん言いますけど、私にはよくわかりません」
「わからなくても問題はない。さあ、そろそろ行こうか。俺たちは失礼するよ」
そう言って、長義は立ち上がった。来たときと同様にボストンバッグを手に持つと部屋の出口へ芙由子を促す。
「二人ともよろしくお願いしますね……長い付き合いになることを望みます」
意味ありげな彼女のせりふを不思議に思いつつ、芙由子は会釈して退席した。
昼時のせいか、建物の外はほどほどに賑わっている。ランチにでも行くのだろう。道沿いで見かける食堂やカフェの中に人々が入っていくのが見えた。
その光景を横目で見ながら、長義の後を追った。余計な私語も寄り道もない彼の案内で、あっという間に資料館へ到着した。道順はきちんと覚えられなかったので、また復習する必要がありそうだ。
久遠館はレトロモダンな洋館だった。紅葉の木が近くに数本植わっているのを横目で見て、吉野から受け取ったカードキーで正面玄関から入室する。
聞いていたとおり、小さな図書館のようだ。芙由子は室内をぐるりと見渡した。壁に併設された多数の本棚にはびっしりと書物が詰まっており、正面にある受付カウンターの奥の壁の本棚にも大小さまざまな本が収まっている。
「……すごいですね」
「来館者が自由に利用できる本棚にあるのは、確か一般書だったかな。児童書や娯楽小説もあったと思うよ」
一生かかっても読み切れなさそうな本の量だ。芙由子は読書が好きだ。その好きが高じて、勉強して司書資格までとったくらいだ。気が進まない転職だったが、本に囲まれるこの久遠館で仕事をするのはなかなか魅力的に思えた。
「あなたは本が好きなんだな」
長義が本日何度目かの笑みを浮かべる。喜怒哀楽のわかりづらい芙由子は家族にも自分の気持ちを察してもらうことは少ない。なぜ彼はわかったのか。尋ねると「なんだか嬉しそうに見えたから」と彼は静かに答えた。
「受付カウンターの後ろから審神者関連の資料だったと思うが……なんだこれは」
カウンターの入り口を開けて奥に進んだ長義が、立ち止まって絶句した。彼の不可解な反応に、本棚を眺めていた芙由子も速やかにそちらへ向かう。
「…………これは」
同じく絶句する。
視界に映ったのは混沌。腐海と言うべきか。入り口からは隠れていて全く見えなかったが、床が見えないほどにたくさんの資料が散乱していた。しかも結構積もっている。
近場にある資料を数枚手にとってみる。『第320回近侍調査アンケート結果』、『備前国における化け狐騒動の顛末』、『水着を初めて見た刀剣男士の反応』と各用紙の見出しにあった。重要なものもそうでないものも混ざっているようだ。この様子では、本棚にしまわれた本の分類も合っているか怪しいところだ。
芙由子は内心で頭を抱えた。近頃よくこうしている気がする。
「やられたな。この現状を見る限り、書庫もひどいことになっていそうだ」
長義の瑠璃色の瞳が右側にある古めかしい扉を見る。おそらくあの先が貴重な資料が保管されているという書庫だろう。
「今は見たくありませんね。ですが引き受けてしまったものは仕方ないので、おいおい片付けていきます」
何はさておき、道をつくるために資料を脇へ退かし、奥にあった事務的な扉をあける。
ダイニングテーブルセットと簡易的なキッチンが設置されたそこは休憩所らしかった。本当に物がなく、冷蔵庫も調理器具も何もない。今日さっそく購入する必要がありそうだ。脇に二階へ続く階段が見えたので、ふたりで上にあがる。
二階は居住空間だった。広い。だが一部屋しかない。三枚あった扉はトイレとシャワールーム、そして屋外へ続く扉だった。建物の正面からはその存在に気づかなかったが、ベランダが一応あったようだ。ちなみに当然シャワールームに浴槽はなかった。規模の割には自分の暮らしていたアパートよりも残念な設備に、芙由子は小さく息をもらした。
「入浴は大浴場を使えばいい……ここには銭湯というか、大きな公共浴場があるんだ。ジェットバスや疲労回復効果の湯もある……」
優しい刀剣男士がフォローを入れてくれる。「気持ちよさそうですね」芙由子はかろうじて答えた。
「しかし、一部屋しかないとは……。私が一階を使いますので、あなたがこちらの部屋を使ってください」
「そういうわけにはいかない。仕切りを使えばいいのでは。その方が都合もいい。俺はあなたを取って食ったりはしないよ」
軽い笑みが彼の口元にのせられる。返す言葉が浮かばない芙由子は口を閉ざした。そんな心配は少しもしていなかった。自分は人間で彼は刀の付喪神。何も起こるはずはない。むしろ何が起こるというのか。
「……さしあたり、必要なものを買いに行こうか。昼食も済ませてしまおう」
短い沈黙を先に破ったのは長義だった。「そうですね」と応じた芙由子はようやく自分の手に戻ってきたボストンバッグから財布の入ったショルダーバッグを取り出した。
階段を下りながら、長義の艶のある銀髪を見つめる。髪にしても容貌にしても、やはり人間離れした美しさだ。こんな存在と一つ屋根の下で暮らすことになるとは誰が想像しただろう。それこそライトノベルのラブコメディのようだ。
仮にタイトルをつけるなら、「イケメン神様とふたり暮らしすることになった件」。200年くらい前にそんなタイトルの本が出版されていそうだ。ただ芙由子の話はすぐに打ち切りになるだろう。メインの男性キャラの絵だけはよかった。間違いなくそんな感想ばかりがつく話になる。
長義が階段を下り終えたのを見計らって、芙由子は尋ねた。
「聞いてもいいですか。あなたはどうして、あのとき刀として私の前にやってきたのですか」
一拍の間を置いて、彼は涼やかな声で答えた。
「……持てるものこそ、与えなければならないから」
振り返った彼の瑠璃色が芙由子をじっと捉えた。
彼が言わんとしていることはわからない。ノブレス・オブリージュみたいな感じだろうか。高潔な印象を与える彼にその単語はしっくりくる。
芙由子も階段を下りた。改めて長義に向き直り、あえて一度も言わなかったせりふを口にした。
「至らないところばかりだと思いますが、どうぞよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしく」
山姥切長義はそう言って完璧な笑みを口元にたたえた。