この本丸には主である審神者のほかに、もうひとり人間がいるらしい――。
そんな噂が囁かれるようになったのはここ最近のこと。
「でも、主以外の人間の気配なんて感じないよね?」
「なんでそんな話が出るようになったんだろう」
「ねえ、山姥切は知ってる?」
他の刀から通りすがりにそう聞かれたが、山姥切国広は「知らない」と答えた。
「あんたが知らないんじゃ、噂はただの噂かあ」
「主以外の人間で最後に本丸に来たのって、あの見習いくらいだったよね」
彼らは納得したように言い合い、「見習いのやつ、今頃元気に審神者やってんのかなあ」と会話に花を咲かせている。
そんな二人を横目で見ながら、山姥切は廊下をまっすぐ歩いていた。向かう先は山姥切がこの本丸で唯一心やすらげる場所。薄暗い通路の中を歩くうちに、だんだんと足取りも速くなっていく。
その場所は彼女と山姥切と審神者しか知らない。地下の隠し扉の奥にある、牢獄のような狭く黴臭い部屋。そこには山姥切の大切なものが閉じ込められている。元見習いに取って代わられ、不当な扱いを受けている審神者が。彼女は本丸の霊力源として使われるためだけに、ここに居るのだ。
「…………。」
山姥切はいつものように鉄格子の向こうをのぞき込んだ。部屋の真ん中に敷かれた粗末な布団の上で、女は静かに目を閉じて座していた。手首と足首にかけられた無機質な鎖が痛々しく見える。
静かな空間に気配が増えたことに気づいたのか、彼女はゆっくりと瞼を持ち上げた。困っているような、悲しんでいるような、怒っているような……いろんな感情の混ざった瞳が、じっとこちらを見つめてくる。
「……ここへは来てはいけないと言ったはずです」
普段よりも冷たい口調で審神者は言う。しかしそれは本心ではないのだと、山姥切は知っていた。彼女が本丸にいる刀剣男士たちを案じて心を砕いていることも、自分が今置かれている状況を理解した上でなんとかしようともがいているのだということも。すべて、分かっている。それでも、山姥切はもう我慢の限界だった。
「あんたはこんな目に遭ってまで、あいつらを救おうとしているのか。なぜ? あんたの刀はみな揃って、あんたのことなど忘れているのに?」
山姥切は審神者から預かっている鍵を取り出し、座敷牢の錠前を外して中へと入る。後ろ手でしっかりと扉を閉め、女の傍まで歩み寄った。彼女の身体からは微かに甘い匂いがする。まるで花の蜜のように甘美で芳しい香りが鼻腔をくすぐるのだ。山姥切はその香りに誘われるように手を伸ばした。
「来ないでください」
「俺があんたの刀ではないから、か?」
「っ……」
女が息を呑む音が聞こえる。怯えたような視線を注がれた。山姥切は気にせずに女の細い身体を抱き寄せ、その首筋に唇を押し付けた。激しく抵抗されるだろうと思っていたが、意外なことに彼女は山姥切を引きはがそうとはしなかった。ただ諭すような落ち着いた声が腕の中から聞こえてくる。
「あなたは自分の主である彼女を想うべきです。彼女のためにも、私に触れるべきではない。それに……私の山姥切国広は一振りだけ。あなたではないし、もうこの世にはいないのです」
「……そんな事はよく知っているさ」
「なら……!」
女の言葉を遮りながら、強く抱き締める。そのまま押し倒すようにして覆いかぶされば、彼女から抗議の声が上がった。
山姥切はちゃんと理解している。目の前の女が自分の主ではないことも、彼女が初期刀として山姥切国広を連れていたことも、その初期刀が彼女を庇って折れたという事実がある事も。
「それでも、俺は自分の主ではなく、あんたを愛してしまったんだ……」
この哀れな女審神者を愛さずにはいられなかった。元見習いに本丸の主である立場を取られ、大切な刀剣男士に存在を忘れられ、愛する初期刀を喪ったこの女に、山姥切の心は囚われていた。どうしようもなく惹かれてしまっていた。
「……あなたは間違っています」
「なんとでも言えばいい」
山姥切は彼女の耳許で囁くように告げるとそのまま口を塞いだ。
***
「あら国広、最近なんだか楽しそうね」
「そうだろうか。……俺にはあんたの方が楽しそうに思えるが」
「そうかなあ。あっでも、この間ね、とっても楽しいことをしたのよ。でも国広には刺激が強すぎるから何をしたかは内緒ね」
ふふっと笑いながら、審神者は書類整理をしている山姥切の隣で楽しそうにしている。
まるで興味のない話だ。さっさと業務を終わらせるべく、紙面に視線を落としながら適当に返事をしていたら、突然頬に柔らかいものが触れた。反射的に顔を上げれば、そこには悪戯っぽい表情をした審神者の顔があった。
「……おい、仕事中だぞ。あんたは何を考えているんだ」
「えへへ、がんばってる国広へのご褒美。この本丸の中で実質わたしの本当の刀って国広だけなわけじゃない? だから特別なの」
「そんな褒美はいらないから手を動かしてくれないか」
照れる様子もなく言ってのける彼女に、呆れた声で言い返す。「は~い」と返事だけはいいが、審神者の手はまるで動いていない。この女は見習い時代に審神者から学ぶ気がなく、大切な話を聞き流していたせいで何をやるべきか知らないのだ。山姥切が事務処理を滞りなく行えるのは、座敷牢に閉じ込められているこの本丸本来の審神者のおかげと言ってもいい。
しばらく黙々と事務処理を続けていたが、やがて審神者がぽつりと呟いた。
「……そういえば国広。あの人の調子、最近はどう? 元気に霊力供給やってくれてる?」
急に静かな声になった審神者に視線を向ける。彼女はにこにこと微笑んでいる。
「……ああ。何も問題はない」
山姥切は嘘偽りのない事実だけを簡潔に答えた。
「そっかあ、よかった! あの人には私のために頑張って働いてもらわなきゃ困るもの」
審神者は無邪気に笑っている。自分がしていることの重大さが本当に分かっているのだろうか。山姥切の脳裏に座敷牢の中に居る女のことが浮かぶ。手首足首を鎖に繋がれ、姿勢を正して静かに座す、あの美しい女の姿が。