彼が視界の端に入り込んだ瞬間、先伸ばしにしていた回答を急かされているような気分になった。私が踵を返そうとするよりも早く、彼は私の腕を掴んだ。振り払おうと思えば簡単にできたはずだが、なぜかできなかった。彼の表情があまりにも真剣だったからだ。
「主」
私を呼ぶ声は、いつになく硬く響く。私は彼を見た。普段あまり感情を表に出さない彼に似つかわしくないほど余裕のない顔だった。掴まれた腕が痛むほどだった。
「俺が何を言いたいか分かるだろう?」
言い訳など許さないと言わんばかりの鋭い視線に射抜かれる。逃げられないと思った。それでも答えられなかった。沈黙を貫く私を見て、彼は小さく息を吐く。
「そうやって黙っていても状況は変わらないぞ」
分かっている。それは分かっていたけれど、どうしても言えなかった。自分の気持ちを認めることができなかった。だって、言ってしまえば、今までの関係ではいられなくなってしまうだろう。そんなのはいやだ。だから、気づかなかったふりをしていたい。
「……ごめんなさい。言えません。どうか察してください」
それが精一杯の言葉だった。これ以上何も言えない。言うつもりもない。彼の顔をまっすぐに見ていられず俯くと、目の前に立つ影が小さく震えたのが分かった。
「……そうか。ならば、仕方がないな」
呟かれた言葉は、驚くほど静かで、落ち着いたものだった。諦めてくれたのだろうか。ほっとしたのも束の間、突然肩を強く押され、背中が壁に当たった。戸惑う暇もなく、両手首を壁に縫い付けられて、正面には彼が立っている。退路をふさがれていることに気づいた時には既に遅かった。
「や、まんばぎりく……」
名前を呼ぼうとする口はすぐに塞がれた。キスされたのだと気付いたのは数秒後のことだった。反射的に身を引こうとすると、逃すまいとばかりに強く腰を抱き寄せられて、より一層密着した体に心臓が大きく跳ねる。
「んっ……!」
ぬるり、と熱い舌先が唇に触れたかと思うと、すぐに口腔内に侵入される。歯列をなぞって、奥に縮こまったままになっていた私のそれを絡め取った。ぴちゃりと濡れた音が立つたびに、羞恥心が増していくように感じる。
「ふぁ……んぅ」
呼吸の仕方を忘れてしまいそうだ。苦しくて、胸板を押し退けようと力を込めるもびくともしない。
「主」
耳許で囁かれて、背筋がぞくりと粟立った。普段の彼からは想像できないくらい艶のある声だった。鼓膜を震わせるそれに思わず身を捩ると抱きしめられる腕の力が強くなった。
「すまない、主。あんたを逃がす気はないんだ」
いつもは凛々しい眉を下げて、弱々しく笑った彼はどこか悲しげに見えた。もう逃げられないことを悟った私はそっと目を閉じた。