山姥切国広の機嫌がよくないことには、本丸の刀たちのほとんど全員が気づいただろう。彼はいつも以上にむっつりとした顔で縁側に座り込んでいた。出陣の予定もなく、内番にも割り当てられていない非番の日である。
その彼がなぜこんなに不機嫌なのかというと、理由は簡単だった。審神者がいないのだ。
ここしばらく、彼女は現世での用事が立て込んでいて、本丸を留守にしている。審神者のいない間、刀剣たちは好きに過ごしていいことにはなっているが、やはり彼女がいないとどこか物足りない。早く帰ってこないかな、と彼らは思っていた。そしてこの刀もまた同じように審神者の帰りを待ちわびていた。
それから数日後の夕方、山姥切が自室でぼんやりと庭の木を眺めていると、襖の向こう側から愛染国俊の元気な声が聞こえてきた。
「おーい! 今日、主さん帰ってくるって!」
それを耳にし、山姥切は弾かれたように立ち上がった。部屋から顔を出し、「何時だ?」と問うと、「いつもの時間!」と返ってくる。待ちに待った知らせだ。不機嫌で歪んだ顔が自然と綻ぶ。
「――そうか」
小さく呟いて山姥切は静かに目を伏せた。やっと審神者が本丸に戻ってくる。そう思うと、胸の奥がじんわりと温かくなってゆくような気がした。だが、それと同時にある感情も湧き上がってくる。それは喜びとも安堵とも違う種類のものだった。
「なにか変わったことはありませんでしたか?」
久しぶりに戻ってきた審神者は開口一番、山姥切にこう尋ねた。出迎えに行った他の刀たちにもきっと同じように聞いているのだろう。彼女はそういう性格だ。山姥切は「別になにも」と素っ気なく答えながら、政府から届いた通知書を手渡す。受け取った書類にざっと目を通して彼女は少しだけ困ったように笑った。
「ああ……やっぱりですか」
「どうした? なにか問題でもあったのか?」
「大丈夫ですよ。ちょっとした連絡事項です」
審神者は通知書をショルダーバッグの中に手早く片付け、何事もなかったかのように言った。だが山姥切は見逃さなかった。一瞬だけ彼女の表情が曇ったことを。それは本当に小さな変化だったが、山姥切にははっきりと分かった。
――また何かを隠している。
その予感は確信に近いものだった。彼女はいつもそうだ。隠し事が上手い方ではないのに、自分ひとりで解決しようとして抱え込む。
――俺を頼ればいいのに。俺はそんなに頼りないか。
そう思った瞬間、山姥切の中でぷつりとなにかが切れた。気がつけば足が動いていて、審神者の手首を掴んでいた。そのままぐいと引っ張って、彼女が逃げられないようにする。
会えなかった間の不安や寂しさ、不満といった感情が溢れ出して止まらない。そのせいだろうか、普段なら絶対にしない行動に出てしまった。
「山姥切く――」
なにか言いかけた唇を塞いだ。触れるだけの軽い口づけだ。けれどそれだけでも十分だった。審神者の体温を感じて、触れ合うだけで満たされる。たったそれだけのことでこんなにも幸せな気持ちになれるなんて。顔を離すと審神者は驚いたように目を丸くしていた。頬には赤みが差しており、「あ、あの」と困惑気味に呟いている。
「……えっと、山姥切くん。今日はどうしちゃったんですか?」
「嫌か?」
尋ねると彼女は首を振る。
「そういうわけではないのですが。最初顔を見たとき、なんだか怒っているような気がしていたので……」
「怒ってはいない」
ぶっきらぼうに答えると、審神者は山姥切の腕にそっと手を寄せて「なにかあったら教えてくださいね」と微笑んだ。柔らかな声音に心臓が跳ねる。彼女の触れた場所がじんわりと熱を帯びていくのが分かる。
――ああもう、どうしてこの人は!
山姥切は審神者の手を握った。こうしているだけでささくれだっていた気持ちが落ち着くから不思議だ。
「……主も、なにかあったら教えてくれ」
「はい。報連相は大事ですからね」
彼女は大きくうなずいた。それから「では、私は日課の業務に入ろうと思います」と言って手を離した。名残惜しかったが仕方がない。山姥切は非番で、今日の近侍は別の刀だった。邪魔をするのは良くない。
近侍の刀が審神者を迎えにきて、二人は連れ立って執務室へと向かった。その背中を山姥切は無言で見送った。
「あ、機嫌直ったみたい?」
廊下を歩いていると前方から加州清光が歩いてきた。彼は山姥切の顔を覗き込んでニヤリと笑う。どうやらごまかしきれずに表情に出ていたらしい。山姥切は決まりが悪くなって目をそらした。
「別に、俺は怒ってなどいない」
「はいはい、そーゆーことにしといてあげるよ」
そう言って彼は山姥切の肩をぽんと叩いた。そのまま通り過ぎていったかと思うと、少し離れたところで立ち止まってこちらを振り返る。そして、ぱくぱくと口を動かして、その言葉を山姥切に伝えた。
「あんまり我慢してるとそのうち爆発するから気をつけなよね」
彼の言うことはもっともだった。まったく人のことをよく見ているものだ。山姥切は内心苦笑した。
(……今日はまずかったな。そのうち、歯止めが利かなくなりそうだ)
山姥切国広は深くため息をつくと、審神者の私室へと急いだ。