花をおくる - 1/11

 雨が降る日は決まって右頬の傷痕が痛む。あえて消さなかったそれを一撫でして、静かな廊下を歩いた。
 今日は政府施設で、本丸を守る結界についての講習会がある。参加は自由だったが、今回は出席することにしていた。私は一般の審神者より霊力が低いらしいので、自分にできることは何でもやっておきたかったのだ。
 そそくさと本丸を出ようとしていたところ、謙信景光が飛ぶように駆けてきて目の前で止まった。「あるじ、どこへいくの? おでかけなら、ぼくがおともするぞ」彼はそう言って私を見上げた。大きな瞳には不安げな色が浮かんでいた。
 私が一人で出かけようとすると、彼は必ずこうしてやってくるようになった。どこにいても駆けつけてくる。一年ほど前からだ。どうやって居場所を突き止めるのか知らないけれど、いつも突然現れる。その度に慣れないながらも彼の頭を撫でてやるのだが、「ひとりではだめだよ」と言って、私の手を握って離さない。
――一人で本丸の外に出るのは危険だ。
 凛とした低い声が脳裏を過った。まるで彼のようだ。真面目で実直な私の初期刀。普段はめったに話しかけてこないのに、私が一人になるとどこからともなく現れて傍にいる――。謙信景光は彼と初めて鍛刀したときにやってきた刀なので、多少は初期刀の彼の影響を受けているのかもしれない。

 同行を断る理由もなく、小さな手を振り払う気も起きず、そのまま二人で手をつないで政府施設へ向かった。
 建物の中は人でにぎわっていた。時折、私の右頬にある傷痕が目に入ってしまうらしく、ちくちくと視線を感じた。見苦しいものではあるから、面布をつけてくるべきだったかもしれない。なるべく気にしないようにしながら受付を済ませ、講習会場に向かう。
 会場にはすでに多くの審神者とその近侍の刀剣男士がいた。彼らはそれぞれ思い思いの場所に座っていて、隣の人と談笑したり資料を読んだりしているようだった。中には眠そうな顔をした人もいる。
 自由参加のわりに人が多いなと驚いていたら、近くから「参加すると評価が良くなるんだって」「評価ってなんだよ?」という会話が聞こえてきた。なるほど、と思いながら目ぼしい席を探す。
 ふと見回すと、見慣れた金髪を見つけた。思わず立ち止まる。彼――山姥切国広は初期刀の一振りなので審神者たちが集まるような場所には大抵いるが、その姿を見ると胸が痛んだ。彼は隣に座っている主らしい女性と仲良さそうに話をしていた。
「あるじ、だいじょうぶ?」
「ええ、大丈夫です」
 謙信に気遣われながら近くの空いていた席に着くと、すぐに講師が現れて講習が始まった。
 講師は本丸がどのように外から守られているのか、どのような結界が張られているのか、などの基本の話をした後、結界の強化方法、ほころびの見つけ方、日頃の生活での注意点や対策などを詳しく丁寧に教えてくれた。すでに知っている内容もなかにはあったが、講師の話はどれも身になるものばかりでためになった。霊力の低い審神者でもできる簡単なやり方を教えてくれていたのもありがたい。
 真剣な表情で話を聞く謙信の隣で、私も必死にノートにペンを走らせた。そんな私たちの熱心な態度が滑稽に映ったのだろうか。近くに座っていた審神者にくすりと笑われてしまった。

 講習会が終わり、休憩がてらドリンクコーナーへ向かった。カフェオレを購入した私の横で、謙信は何種類ものジュースを前にうんうん悩んでいた。そしてやっと決めたようで嬉しそうに一つを選び、紙コップを両手で持って一口飲んだ。途端に目を輝かせ、「おいしいね」と笑う。それに頷いて答え、空いている席に移動する。
 なにを話すわけでもなくドリンクを飲んでいたとき、入り口の方から笑い混じりの声が上がった。無意識にそちらへ顔を向けると、先程の講習会場で見かけた審神者がいた。その背後には近侍の刀剣男士が付き従っている。
「さっき講習会で隣だったあの審神者、必死で笑える。あの霊力じゃあ、どうせ何もできないでしょうよ」
「……主、そういう発言は控えてくれ」
「それにあの顔の痕――」
「主、やめろと言っているだろう。自分の品位を落とすだけだ」
 近侍に厳しく注意され渋々黙ったものの、彼女の言葉はまだ続いていた。明らかに目をこちらに向けて、彼女はさらに口を開いた。
「でも事実でしょう」
「…………」
 確かにそうだと思った私はうつむき、膝の上でぎゅっと拳を握った。
「あんな霊力じゃあ、どんな優秀な人材だってたかが知れてるわよねぇ……。ああ嫌だ嫌だ! 陰気臭いし、あんなのと同じ空気なんて吸いたくないわあ」
 彼女がわざと聞こえるように言ったせいか、周りにいた他の人たちまで同意するようにクスリと笑ったり、ひそひそと話し始めたりした。同情するような視線を送られたりもした。
 ふと向かい側の席の謙信を見ると、悔しそうに唇を引き結んで下を向いていた。握られたカップがわずかに震えている。彼はぽつりとつぶやいた。
「あるじのきずあとは、ひとをまもったときにできたもの。あるじはやさしいにんげんなんだぞ」
 その声はとても小さかったけれど、周りの騒がしさのなかでも不思議とよく響いた。
 それを聞き、どこかの審神者は一瞬驚いたように口を開けた後、「あらごめんなさい」と言い残して何もしないまま去っていった。そのあとを深いため息をついた近侍が追う。彼はこちらに振り返ると、無言のまま頭を下げて去った。
 しばらく呆然としていたが、やがて我に返った。悔しそうな顔から一転、悲しそうな顔になった謙信の頭を「ありがとうございます」と言って撫でる。彼は潤んだ大きな瞳をそっと閉じると、「ほんとうのことなのだぞ」と小さく返した。
 その後は何もなかったかのように振る舞い、二人で本丸に帰った。帰り道はほぼ無言だったけれど、つないだ手はずっと離さなかった。

 本丸ではまだ雨が降っていた。空にはどんよりと厚い雲が広がっている。湿気を含んだ生暖かい風が吹いて、庭の木々の葉っぱたちを揺らしていた。引きつる傷痕に顔をしかめながら傘を閉じる。玄関の戸を開けると堀川国広が出迎えてくれた。
「二人ともおかえりなさい。お疲れさま」
 彼はそう言って微笑んだが、私の顔を見るとわずかに眉を寄せた。
「……主さん、なんだか元気がないみたいですけど何かあったんですか?」
 口を開こうとする謙信を視線で制する。彼は不満げな顔をしたが、私が首を横に振ると仕方なさそうに肩を落とした。
「いいえ、特に何もありません」
「本当ですか? 主さんは頑張りすぎるところがありますからね」
 困ったような笑顔を浮かべる彼に、本当に何もありませんよ、と返す。
 いつものように政府施設へ出かけて、いつもと同じように帰ってきた。ただ、それだけだ。
「無理だけはしないでくださいね。休めるときは休んでください。……兄弟もきっと同じことを言うと思います」
 彼は私に背を向け、厨へと歩いていった。静かな声、そして少し寂しそうな声だった。

 雨音を聞きながら、講習会で習ったことを端末に記録していく。本丸の守りの要のこと、審神者の霊力のこと、いざというときの簡易結界術……。そこまで文章を打ち込んだところで、不意に室内に明るい声が響いた。かんしゃく玉が破裂したような音とともに現れたのは管狐のこんのすけだった。
「主さま! ご機嫌いかがでしょうか!」
 やわらかそうなしっぽをふわりと揺らし、こてんと愛らしく首をかしげて彼は口を開く。こちらは急な来訪に驚いているというのに実にのんきな顔をしている。まったく心臓に悪い、と端末の文章ファイルを保存しながら管狐の方に向き直る。
「今日はなんの用ですか。政府からなにか連絡でも?」
 事務的に問えば、こんのすけは簡単に定期報告をした後、思い出話でも始めるようにどこか遠い目をしながら語りだした。
「あの事件から一年がたちましたね」
「……そうですね」
「主さまのもとに参りますと、あの方がいつもお側にいらっしゃいました」
 懐かしむような声で、しかし淡々と語る。
 いつも私を気にかけてくれた人。いつも私を励ましてくれた人。いつも私を支えてくれた人。――私を、守ってくれた人。
 こんのすけが語る“彼”のことを思うと、顔の傷痕よりも胸の方が痛む。じくじくとその痛みは消えない。おそらく、消えることなどないのだと思う。
 私が黙っている間もこんのすけはずっと話し続けた。そして最後に言った。
「主さま、一年がたちました。……そろそろあの刀の顕現をしてもよろしい頃合いではないでしょうか」
 それが本題だったのだろう。つぶらな瞳に真剣な色を宿らせて、彼はじっとこちらを見つめた。私は内心ため息をつきながら、ゆっくり答える。
「考えておきます」