「……主に聞きたいことがあるんだが」
夕食後の空き時間のことだ。自室でネットの海を漂って漂っていたところ、突然部屋にやってきた山姥切国広にそんなことを言われた。どこか思い詰めたような表情で、わたしの顔をじっと見つめている。
彼がわざわざ訪ねてきたということは、何か大切な用件に違いない。わたしは居住まいを正して彼の言葉に耳を傾けた。
「どうしたんですか?」
わたしの問いかけに彼は少し口ごもった後、意を決したように切り出した。
「きすとはどういうものだろうか? 教えてくれないか」
「……えっ?!」
予想外すぎる質問だった。
山姥切国広は普段あまり自己主張しないタイプの刀だけれど、その分たまに出てくる発言には驚かされることも多い。まさかこの真面目な初期刀からこんなことを聞くとは思わなかった。
「……なんでまた急に?」
動揺する気持ちを抑えてそう尋ねれば、山姥切は静かに語り始めた。
「前に主が留守だった日があっただろう。そこで皆で集まって飲んだ際に、その……女遊びの話になってだな……」
ほとんどの審神者が承知していることだが、刀剣男士にも人間と同じ三大欲求がある。食欲・睡眠欲は言わずもがな、性欲もその一つだ。
個刃差があるようだが、刀剣男士は戦場で生死をかけた戦いに身を投じている分、昂ぶった熱を持て余すことがあるという。その発散方法はさまざまだが、山姥切の話によると我が本丸の刀剣男士たちは時の政府公認の花街を利用することが多いらしい。
わたしは自分の刀剣男士の性事情など知らなかったし、その辺りは彼らの自由にさせていたのだが(もちろんルールは守ること、誰かの迷惑にならないのが条件だ)、彼らはきちんと自分で処理していたようだ。そして飲み会の席でどう処理しているかという話になったときに、件の「キス」という単語が出たのだという。
「とりあえず、きすをしておけば相手の機嫌も取れるし、場の雰囲気もよくなると言っていた。そういうものなのか? 俺以外の皆は、きすは経験済らしいのだが……」
山姥切は困ったようにわたしを見上げてくる。その視線から逃れるように目をそらせば、彼は焦れた様子でさらに詰め寄ってきた。
「きすとはどういうものなんだ? 未経験では恥ずかしいのだろうか?」
「そんなことはないと思いますけど……」
わたしは頭を抱えたくなった。
この本丸の初期刀である山姥切にはずっと世話になりっぱなしだったので、できる限り力になりたいと思っている。だが、さすがに今回ばかりは難しいかもしれない。なぜなら、わたしも未経験だからである。そもそもわたしはこの歳まで恋人がいたことがないのだ。彼氏いない歴=年齢だ。
山姥切に逆に問いたい。キス未経験のあなたの主は恥ずかしい存在なのかと。やっぱり恥ずかしいのだろうか。それにしても山姥切国広以外の刀剣男士がみんな、キスの経験が有るなんて……。わたしの方が長く人間をしているはずなのに。やはりイケメンはずるいと思う。
しかし、いつまでも現実逃避していては仕方がない。わたしは腹を括ると、まずは文明の利器を使い、インターネット検索を始めた。「キス やり方」と入力すると、すぐにたくさんの情報が出てきた。
検索結果の上位に表示された「相手を夢中にさせるキスの方法」というページを開く。そのページには「唇を合わせるだけじゃない! もっと気持ちよくなれちゃう方法!」という文字とともに、さまざまなシチュエーションの写真が載っていた。
(すごい……)
キスの仕方にもいろいろあるらしい。わたしはなんともいえない気持ちでそれを眺めた。
「主、何を調べているんだ?」
いつの間にか背後にいた山姥切に声をかけられ、ビクッとする。振り返れば、彼は不思議そうな顔をしてこちらを見ていた。
「少し調べ物を……。このページを見てください。これがキスのやり方です」
山姥切に見せた端末画面には、唇を重ねるだけの簡単なものから舌を入れるディープなものまで様々な方法(二十種類くらい!)が紹介されている。そのどれもがとても気恥ずかしくて、わたしはそっと目を伏せる。だが山姥切は真剣な表情でそのページを読んでいた。布に隠れて顔はよく見えないけれど、心なしか頬が赤い気がする。
「……いろいろな種類があるのだな」
「そうみたいですね。山姥切くんの疑問は解決しましたか?」
「ああ、助かった。だが……」
「? どうしました?」
「これを実践する相手がいないんだが……」
彼はそう言うと、じっとこちらを見た。まるで捨てられた子犬のような目だ。そんな風に見つめられれば、無下に断ることもできない。わたしは観念して口を開いた。
「……わたしでよければ、練習台になりますよ」
「いいのか?!」
そう言った途端、山姥切の顔がパッと輝いた。あまり表情に変化のない彼のそんな変化が可愛らしく思えて、思わず笑みがこぼれてしまう。
「ええ。乗りかかった船ですからね」
キスのひとつやふたつ、どうということはないはずだ。それにわたしだって一度くらい経験しておいたほうがいいだろう。そんな軽い気持ちで引き受けてしまったことを後悔するのは、もう少し先のことになる。
翌日の夜。
わたしは執務室で山姥切との約束の時間が来るのを待っていた。今日は山姥切とキスの練習の日なのだ。あの後、「それじゃあ明日の夜にしましょう」ということになったのだが、正直不安しかない。
昨日は勢いに任せて承諾してしまったものの、いざ当日になると緊張してしまう。しかも、よりによって初めての相手が山姥切国広だなんて……。
わたしは部屋で一人、悶々としていた。すると、障子の向こうから声が聞こえてきた。
「主、入ってもいいか」
「はい、どうぞ」
わたしが立ち上がると同時に、スッと障子戸が開かれる。そこにはジャージ姿の山姥切がいた。いつもの布を被っているせいで、表情はあまりわからない。でもどことなく緊張しているような雰囲気を感じるのは気のせいだろうか。
「失礼する」
山姥切は部屋に入ってくるなり、その場に正座をした。そしてそのまま頭を下げる。
「本日の件、よろしく頼む」
「いえ、こちらこそ……」
改まってあいさつされるとなんだか照れくさい。それは向こうも同じだったようで、互いに顔を赤くしながら俯いてしまった。沈黙が流れる。
「……」
「……」
微妙な空気が流れ始める。なんとも言えない気まずさが辺りに立ち込めた。
わたしは意を決して口を開く。
「や、やるなら早くやってしまいましょうか。……えっと、これなど最初に試すのにいいのでは?」
昨日閲覧したサイトを開いて見せ、「プレッシャーキス」という文字を指差す。わたしは初めて見る単語だったが、閉じたくちびる同士を重ねるだけの単純な行為なので簡単そうだと思ったのだ。仮に失敗しても大きな傷にはならないだろうという、そんな思いもあった。
山姥切もそれに同意するようにこくりと首を縦に振る。
「わかった。じゃあ早速やってみよう」
彼は小さい息をつくと、そっと顔を近づけてくる。長い前髪の間からのぞく碧眼がとても綺麗だ。こんなにも美しい瞳をしているとは知らなかった。
至近距離で見つめられると恥ずかしい。山姥切もそう思ったのか瞳を閉じたので、彼にならうようにわたしも目をつむった。緊張しながらその瞬間を待っていると、ふにゅっとした柔らかい感触がした。……鼻の下に。
「できた」
山姥切国広は誇らしげに呟いた。位置が間違っていると指摘するのは野暮だろうか。あんまり彼が満足そうなので、つい笑ってしまう。
「ふふっ」
「なんだ? 俺は何かおかしいことをしただろうか?」
小首をかしげる彼に、わたしは首を振って答えた。
「いいえ。ただ……山姥切くんが本当に好きな相手とキスをするときは、くちびるにしてあげてくださいね」
「俺はくちびるにしたつもりだったのだが……」
「鼻の下でしたよ。惜しいです!」
「……鼻の下……。…………主、もう一度やり直させてくれ」
彼は真面目な顔つきでそう言うと、再びわたしの方へ近づいてきた。
「れ、練習ですし、気にしなくてもいいと思いますよ。ちゃんとしたキスは本命相手にとっておきましょう」
「だったらなおさらだ。あんたが相手だからこそ、きちんとしたい」
「そ、そうですか……?」
妙に力の入った山姥切の言葉に、思わず気圧されてしまう。彼は本気のようだ。こうなった以上、わたしが折れるしかない。
「わかりました。そこまで言うのでしたら、協力します」
「ありがとう。感謝する」
山姥切はほっとした様子を見せると、わたしの手を取った。そして真剣な表情でこちらを見据えると、ゆっくりと顔を近づけてくる。
今度はうまくやってくれるだろうか? ものすごく恥ずかしいし、心臓にも悪いから今度こそちゃんとしてほしいものだけれど……。そんなことを思っているうちに、彼の端正な顔立ちが迫ってきて、思わずぎゅっと目を閉じてしまう。
その後、ちゅ、とくちびるが触れた。……鼻に。
「できた」
山姥切国広は満足げに呟いた。
「できてませんよ! 感触が違うでしょう!? 鼻に当たってます!」
「む、確かに……。もう一度やり直しをさせてくれないか」
彼は大真面目に答えると、再度わたしの顔へと唇を寄せてきた。しかし、またもや鼻に当たる。
「なぜだ……?」
「角度の問題ですかね? 位置がわかりづらいようでしたら、目を開いたままでするのもアリだと思いますよ。わたしは目を閉じていますね」
「わかった」
彼は小さく返事をすると、再び顔をこちらへ寄せてきた。今度は目を開けたまま。わたしはそっと瞳を閉じる。直後、柔らかなものがくちびるに重ねられた。
数秒後、それは離れていく。名残惜しいような気持ちになると同時に、心拍数が上がっていく。山姥切はどう感じているんだろう……。気になって薄らとまぶたを開ける。
「……できた」
山姥切は小さな声で言うと、嬉しそうに口元を緩めた。そしてすぐにハッとすると、慌てて顔を背ける。
「これでいざというときも安心ですね」
「あ、ああ……。そうだといいが」
視線を彷徨わせながら照れくさそうにしている彼を見ていると、こちらまでつられて照れくさくなってくる。わたしは俯いて、畳の網目に視線を落とした。
とりあえず彼とのレッスンは終えることがてきそうだ。わたしは安堵のため息をつく。
だが、そんなわたしの気持ちなど知らない山姥切は、至極真面目な顔をしてこう言った。
「他のきすも試してみたい」
「他のキスですか!?」
思いも寄らない言葉に声が裏返ってしまう。参考にしたサイトによるとキスは二十種類以上もあるらしいが、どれを練習する気なのだろう。まさか全部やる気ではあるまいな。わたしが身構えていると、山姥切は躊躇うようにこう続けた。
「……主が嫌でなければの話なんだが」
そう言うと、「だめか?」という表情でじっとわたしを見つめる。そんな顔でお願いされて断れるわけがない。わたしはため息混じりに口を開く。
「……わかりました。で、どのキスを試してみたいのですか?」
「全部」
彼は即答した。
「え?」
「全部試してみたい」
「全……部?」
聞き間違いかな? と一瞬思ったが、山姥切はこくりと首を縦に振った。
「全部ですか……それはまた随分と欲張りですね……」
「すまない……。だが、せっかく主と……から……」
彼は何事かつぶやいたが、後半は小さすぎてよく聞こえなかった。
「えっ? すみません、何とおっしゃいました?」
わたしが尋ねると、彼は少し頬を赤らめながら口を開いた。
「い、いや、なんでもない。とにかく、後学のために俺はいろいろなきすを経験してみたいと思っている。だめだろうか?」
「後学のためというのなら、経験豊富な方に教えていただいた方がいいのではないでしょうか? それこそ、花街のお姉さんとか」
彼のようなイケメンなら、きっと彼女たちは喜んで色々とレクチャーしてくれることだろう。そう思って提案してみると、山姥切は眉間にシワを寄せ、首を横に振ってみせた。
「俺には無理だ。それに兄弟も俺に花街は、はーどるが高いと言っていた……!」
「まあ、そうかもしれませんね……」
おそらく口を出したのは堀川国広だろう。なんとなくその様子が想像できてしまい、苦笑する。確かに、彼の性格的にそういう場所へ行くのは難しいかもしれない。
「つ、つまりだ! 俺はあんたに教わりたいんだ!」
顔を真っ赤にしながら、わたしの両肩をつかむ。そして、「あんたがいい」と静かに繰り返した。その真剣なまなざしに、思わずドキリとする。
「そこまで言うのでしたら……」
「いいのか……?」
「はい。でも、その……わたしも先ほどあなたとしたあれが初めてなので……」
そこまで言って恥ずかしくなり、口ごもる。なぜこんなことを告白するはめに……。穴があったら入りたいとはこのことだ。しかし、山姥切は意外にも嬉しそうな表情を浮かべると「それは本当か?」と尋ねてきた。
「本当ですよ。……こんなこと、嘘ついたってしょうがないでしょう」
「そ、それもそうか……すまなかった」
「いえ、別に謝る必要はないのですけど……」
沈黙が流れる。山姥切は何か考え込んでいる様子だった。そしておもむろに立ち上がると部屋を出ていこうとする。どうしたんだろう、と思いつつも見送ると、彼は襖に手をかけたまま振り返った。
「主」
呼びかけられ、顔を上げる。すると、山姥切はこちらを見下ろしながらこう続けた。
「……明日もこの時間、ここに来ても構わないか?」
「え? ああ、はい。もちろんです」
練習台になると約束したのだ。私室では障りがありそうだし、執務室で行うのがいいだろうと思い答えると、山姥切はほっと息を吐いた。心なしか表情が柔らかいような気がする。
「では、また明日」
「はい。おやすみなさい」
わたしの言葉を聞くなり、山姥切は足早に去っていった。
一人になったわたしは机に向かい、業務日誌を書き始める。今日の出来事や感じたことをしたためていくのだが、頭の中は山姥切とのキスのことでいっぱいだった。明日の約束をしてしまったが、果たしてどんな顔をして会えば良いのだろう。わたしはペンを持ったまま頭を抱えた。