足りない - 1/5

 最近どうにも体がだるく、やる気が起きない。
 今までになく沈んだ気分に体調の変化を感じ、山姥切国広は医務室に向かった。
 医務室というと大層な名前に感じるが、実際はちょっとした怪我の手当てをする部屋だった。本丸の唯一の人間である審神者のための薬品が多く常備されている。
 部屋を訪れると、医務室の主である薬研藤四郎が眼鏡越しに不思議そうな瞳でこちらを見た。
「どうしたんだ? あんたがここに来るなんて珍しい」
 読書中だったらしい彼が本を閉じながら、首をかしげる。分厚い本だったので、てっきり医学書かなにかを読んでいるか思ったら、本丸で回し読みされているコミック雑誌だった。
 山姥切は本から視線を外すと歯切れ悪く答えた。
「……どうも調子が悪いんだ」
 その一言に薬研は眉を曇らせた。詳しい症状を聞かせてくれと言うので、気になった症状はすべて話した。
「ところで、それはいつから起こっているんだ?」
 正直に答えると、薬研がぽんと肩をたたいた。
「俺からあんたにできることは何もねぇな。あんたのそれは主欠乏症……まあ、つまり大将不足だな」
 大将の側にいたら、すぐによくなるぜ。
 短刀の中でも豪胆な彼はそう言って、遠慮もなく笑った。

***

 ……主欠乏症。
 脳内でその言葉を反芻する。確かにここしばらく審神者に会っていない。ついでに言えば、会話もしていない。本丸に刀の数が増えた結果、個刃に割かれる時間が相対的に減ったのだ。
(……主不足、か)
 しかし、そんな馬鹿なことがあってたまるか。
「……俺は信じないぞ……!」
 山姥切国広は頭を抱えた。
「なんだ? 急に」
「いや、なんでもない……」
 隣に座っている獅子王が怪しむような視線を送ってくる。山姥切はそれを無視して目の前に置かれた酒杯を手に取った。
 今日は新入りの歓迎会だった。宴席には多くの仲間が集まり、にぎやかな空気が流れている。
 このところ、この本丸は新たな戦力を増やすことに注力されていた。新しい時代への経路が開かれ、敵が強くなっているためだ。また同期よりも刀の所持数が少なく、本丸運営が遅れているらしい審神者は、こんのすけ経由でしつこく政府からせっつかれている。そういうわけで必死になって戦力増強に努めていた。
「……おい、山姥切。お前さっきから全然飲んでないじゃん! ほらもっと飲めよ!」
 先ほどから何度目かになる言葉を投げかけられ、小さく溜息をつく。その辛気くさい態度が隣の獅子王を気遣わせていることに、山姥切は気づいていない。
「ていうかお前、大丈夫か? なんか顔色悪いけど……」
 心底心配しているらしい彼に、山姥切は少しだけ申し訳なくなった。
「主に見てもらった方がいいんじゃないか……?」
 獅子王の口から出た“主”という言葉に山姥切の肩が跳ねる。そんなことには気づかず、獅子王はどんちゃん騒ぎが繰り広げられる室内をぐるりと見回している。だが、どこにも見当たらないらしく、「あれ? いねぇなあ」と彼は不思議そうにつぶやいた。山姥切はがっかりする気持ちを隠して、「そうみたいだな」と相槌を打った。
 その時、背後から声をかけられた。振り返ると、そこには燭台切光忠がいた。人好きのする笑みを浮かべて、こちらを見下ろしている。その手には酒瓶が握られていた。彼が持っているのは異国の文字が書かれたラベルの貼られた瓶だった。
「ぶどうのお酒だよ。よかったらどうだい?」
 そう言って、燭台切は酒瓶を差し出してきた。獅子王が興味深げに頷く横で、山姥切もこくりと頷いた。それを合図に、透明なグラスに静かに赤色の酒が注がれていく。その様子を眺めながら、山姥切はぼんやりと、審神者のことを思い出していた。……ここにいない主は、今どこにいるのだろう。
 グラスを手渡され、それを両手で包み込むように持つ。一口飲むと、芳しい香りが鼻を抜けた。爽やかな甘さが舌の上に広がる。そのまま、グラスの中身を一気に煽る。
「……うまいな」
 心の中で、思ったよりは、と付け足す。
 山姥切が言うと、燭台切は嬉しそうに笑みを浮かべ、空になったグラスにおかわりを注いだ。獅子王はあっという間に飲み干されたグラスをじっと見ていた。大丈夫かよ、と案じるような表情であった。
 二杯目の酒をまた一気に飲み干すと、山姥切は顔をふうと息を吐いた。そうしながら、三杯目を飲むためにグラスを持ち上げようとすると、今度は別の方向から声がかかった。
「兄弟。今日はもう、お酒はやめた方がいいよ」
 声の方に顔を向ければ、堀川国広が立っていた。山姥切の側まで来ると、心配そうな瞳を向けてくる。酌でもして回っていたのだろうか、彼の手には別の酒瓶があった。山姥切が無言でそれを指し示すと、堀川は困ったような笑みを浮かべて首を振った。
「なぜだ」
「……兄弟が飲み過ぎだからだよ」
「まだ三杯しか飲んでない」
 山姥切が不満そうに言うと、堀川は呆れたように息をついた。背中に酒瓶を隠して、諭すように口を開く。
「嘘、その前にも飲んでたよ。……主さんも言ってたでしょ、あんまり飲み過ぎてはいけませんよって。酒は飲んでも飲まれるな、だよ。兄弟はお酒に強くないんだから、無理しないで。ね?」
 そう言って、堀川は山姥切の手からグラスを奪い取った。
「とにかく、もう駄目だからね!」
 腰に手をあてながら、彼はぴしゃりと言い放った。

 その後、しばらくして宴席を抜けた山姥切は、ふらつく足取りで廊下を歩いていた。
 酔っ払って歩くその姿は、誰が見ても千鳥足の一言に尽きるだろう。痛む頭に柳眉を寄せる。
「くそ……、最悪だ……」
 悪態をつきながら、壁に手をついてよろよろと歩いた。こんなことになるなら、先に退席した一部の短刀たちを倣って、自分もさっさと宴席から抜け出せばよかった。
 山姥切は後悔の念に苛まれていた。酒に弱い自覚はあったのに、勧められるがままに杯を重ねてしまった己の浅慮さを呪う。新入りの歓迎会ということで、今日の宴会はいつもより盛り上がっていた。新しい仲間が増えるのはいいことだ。審神者も嬉しそうにしていた。それを見たら、つい気が緩んでしまったのだ。
「……くそ」
 山姥切は、人気のない暗い廊下を歩きながら、小さく毒づいた。先ほどから視界がぐらついている。足元がおぼつかない。頭もガンガンする。山姥切は壁に肩を押しつけて、どうにか体勢を整えようとした。しかし、うまくいかない。
 自分の部屋はどこだったか。確か、この角を曲がればすぐだったはずだ。そう思い、壁伝いに曲がり角を曲がろうとした時だった。
 どん、と何かにぶつかった。
「……なんだ」
 山姥切は思わず文句を言いそうになったが、すぐにそれが人影であることに気づいて口をつぐんだ。
「……山姥切くん? 大丈夫ですか?」
 ずっと聞きたいと思っていた声。視線を声の方向に向けると、床に尻餅をついた審神者がいた。彼女は驚いたように目を丸くしている。
「山姥切くん、なんだかお酒のにおいが……」
 そう言われて、とっさに口を手で覆った。確かに、さっきまで自分が飲んでいた酒のにおいが微かに漂っている。
 山姥切は慌てて立ち上がり、姿勢を正した。主に心配かけて何をしているんだ、と胸中で己を叱咤する。
「すまない。怪我はないか」
 座り込んだままの審神者に向けて、手を差し伸べる。彼女は躊躇しながらも、その手をとった。彼女の手を引いて立ち上がらせると、山姥切は軽く衣服の埃を払ってやった。
「私は大丈夫ですよ。それよりもあなたの方が……お酒、たくさん勧められちゃいましたか? あなたは断れない方ですから」
 まさか自分から進んで煽ったとは言えまい。山姥切がすっと視線を逸らすと、何も知らない審神者はなおも心配そうに顔を覗き込む。常夜灯のか細い光だけが頼りの薄闇の中、二つの瞳がじっと目を凝らすようにこちらを見つめている。
 風呂上がりらしい審神者の髪の毛はしっとりと濡れていて、甘い香りがした。まるで、彼女そのものが香水のように思えた。山姥切は彼女の身体から漂う香りにも酔いそうになるのを感じながら、必死に平静を保とうと努めた。
 彼女が身にまとっているのは、寝間着代わりの浴衣だった。襟元から白い肌がのぞいていることに気付き、山姥切は慌てて彼女に背を向けた。息を吐き、体に篭もりそうな熱を逃そうとする。
 だが、そんな努力も審神者に触れられたら、もう駄目だった。
「本当に大丈夫なんですか?」
 少しひんやりとした手のひらに手首をつかまれたその瞬間、酒で弱っている山姥切の理性は霧散した。勢いよく振り返り、そのまま彼女を抱きしめる。
 触れた場所から伝わる体温。柔らかな感触。そして、ほのかに漂うシャンプーの香り。山姥切は夢中で腕の中の温かさを求めた。主欠乏症だと笑って指摘した、薬研藤四郎の声が脳裏に蘇る。その言葉を強く実感した。
 好きだ。どうしようもなく、俺はあんたが好きなんだ。
 言葉の代わりに、強く抱き締める。もっと深く、もっと近く、もっと奥底へ。
 審神者は抵抗しなかった。ぽかんとしながら、山姥切を見上げている。その薄く開かれた唇に誘われるように顔を寄せる。
 ――その時だった。
 廊下の奥の方から、誰かの足音が聞こえてきた。一緒に陽気な鼻歌も響いている。そちらに目を向けると、人影が見えた。山姥切は我に返り、審神者から体を離そうとした。
 しかし、離れかけた体は、逆に強い力で引き寄せられた。山姥切の胸に顔を埋めるようにして、審神者が彼の体を抱きしめ返す。山姥切は驚き、身動きが取れなくなった。
 彼女の激しく脈打つ心音が静寂の中で響いて聞こえた。実際は自分だけに聞こえているのだろう。その音を聞いているうちに、自分の鼓動もまた同じくらい早くなっていることに気がついた。山姥切は審神者を強く抱きしめたまま、“誰か”がこちらに気づかずに通り過ぎるのを待った。自分たちが壁の死角にいることを内心で願う。
 足音はだんだん近づいてくる。審神者の手が山姥切の布をぎゅっと握りしめている。
 緊張で体が強張っていた。山姥切は身を固くして、息を殺した。心臓の鼓動がさらに早くなる。
 やがて、足音はふたりがいる曲がり角にやってきた。だが、相手も相当酔っているのか、ふたりに気づくことなくまっすぐ歩いていった。
 足音が完全に消えたところで、ふたりは安堵のため息をついた。その吐き出した息とともに、山姥切を苦しめていた酔いもどこかへ行ってしまったようだった。
 そろそろと審神者を放せば、うかがうように見上げる彼女と目が合った。その瞳が潤み、頬が紅潮していることに気づく。山姥切は夜目が利く自分に嘆いた。
「…………どうして」
 小さな声で問いかけてくる審神者の口を、山姥切は自分の口で塞いだ。
 先ほどよりも長い時間、互いの呼吸を奪い合うような口づけをした。腕の中から彼女を解放すると、今度は額を合わせた。
「……やっぱりお酒のにおいがします」
 審神者は苦しげに言った。山姥切は、ああ、と短く返事をする。
「……酔っているからですか。だから、こんな」
 そう言って彼女は目を閉じた。何かに耐えるかのように下唇を噛んでいる。山姥切はその口を自分のそれでもう一度覆った。
 彼女は逃げなかった。
 山姥切は、ゆっくりと唇を離した。審神者はぼんやりとしたまま、こちらを見つめている。
 ……あんたこそ、抱きしめ返してきたじゃないか。なんでだ。
 そう問いたい気持ちをぐっと堪えて、彼女の手をとった。そして、そのまま歩き出す。審神者は何も言わず、手を引かれるがままについてきた。
 自室の前にたどり着くと、山姥切は部屋の障子戸を開けた。室内は暗い。明かりをつける余裕もなかった。
 畳の上に敷かれた布団まで連れていくと、彼女の手を引いたまま、その上に腰を下ろした。審神者が隣に腰を下ろす。
「……あの、山姥切くん」
「なんだ」
「今日はどうしちゃったんですか」
 その問いの答えを、山姥切は審神者の耳元で囁いた。
「……俺は主不足なんだ」
 恥ずかしそうに俯く彼女の手を握り、話を続ける。
「最近調子が悪かったんだが、それは主不足のせいだと薬研に言われた。言われて初めて、あんたとずいぶん話していないことに気づいた。……あんたに会えないのは、つらい」
 山姥切は審神者の体を引き寄せると、己の膝の上に乗せた。彼女は戸惑いながらも、大人しく腕の中に収まった。それに安堵しながら腕を腰に回し、抱きしめる。彼女の髪に鼻を埋め、深く息を吸う。シャンプーの香りに混じって、彼女自身の優しい香りが鼻をくすぐった。
「俺にはあんたが不足しているんだ。もっと欲しい。……あんたはどうだ?」
「……私もです。あなたと過ごす時間が足りません。でも、ずっと忙しくて……」
「……近侍のろーてーしょんから外された」
「ごめんなさい」
 山姥切は審神者の肩に軽く顎を乗せながら、気にするな、と言った。
「本丸の事情もある。戦力も増強しなければならないし、仕方がない。だが、この状態は困る。俺はあんたが足りない。あんたが欲しくて気が狂いそうだ。どうすればいい?」
 審神者はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと呟いた。
「私だって山姥切くん不足ですよ。えっとそうですね。夜に……夜に、時間を取りましょう。寝る前に、こうしてお話をしましょう」
「話だけでは満足できなかったら?」
 抱きしめる腕に力を込めて問いかける。審神者は少しだけ笑った。
「そのときは、そのときですね」
 振り返るように審神者が自分を見る。その唇に山姥切は黙って口づけを落とした。